「お国が違えば」慣習や国民のビヘイビアは変わる。いまさら、フランス人旅行者が日本の家屋に土足で上がることはないだろうし、日本人旅行者がフランスでレストランに入りおしぼりを探すこともないだろう。しかし、意外と知らない違いはあちこちにあり、違いが些細であるほど見逃しがちである。本稿では、そんな国による「ちょっとした違い」を紹介したい。
「ママ、また『ボンジュール』と『オルボワール(さようなら)』って言わなかったね」。子どもの運動靴を探しにふらっと入った靴屋を出た瞬間、まだ10歳にもならない子どもに咎められた。日本で20歳過ぎまでの人生を送った筆者は、渡仏から20年以上たった現在も、冷やかし半分で入った店の店員に「こんにちは」とほほ笑みかける習慣がつかない。店を出る時にも、「さようなら」とか「メルシー(ありがとうございました)」という言葉が反射的に出てこない。日本では、よほど馴染みの店でない限り、ふらっと入った店の店員にわざわざ「こんにちは」と言うことはあまりないし、まして、店を出る時に「さようなら」とは言わない人が多いだろう。「ありがとう」もめったに言わないのではないかと思う。フランス人の夫にも、筆者のこの「何年たっても店の出入り時に挨拶できない」問題をよく指摘されるが、三つ子の魂百までである。
最近は、店に出入りする時には「声がけ」を意識しているので、反対に、日本に一時帰国した時、コンビニエンスストアに入店しながら、つい「こんにちは!」と元気に挨拶してしまったり、支払いをしながら「ありがとうございました!」と言ってしまったりして、店員にギョッとされる。そういえば、ここは日本だった。また右折しようとしてワイパー作動させてしまった(日本とフランスでは車のウィンカーレバーとワイパーレバーが逆なので、久しぶりに日本で運転すると間違えるのである)、と思う。これは何も日本人が失礼なわけではなく、単純に慣習の問題だ。日本では店員が「いらっしゃいませ」と声をかけるが、その時に目があったら客は挨拶がわりに軽く頭を下げるかもしれない。精算時も「ありがとうございました」と言われれば、少し頭を下げて返答する。発声ではなく、軽いお辞儀が挨拶がわりになるわけだが、逆にフランスの店ではこの動作は意味をなさず、店員にはあっさり見逃されてしまうだろう。
店員に限らず、フランス人は知らない人にもよく挨拶するし、話しかけるように思う。基本的にフランス人は話し好きなのだろう。しかし、実は「聞く」方はあまり得意ではないようだ。フランス人自身が「フランス人は討論好きだが、人が話している間に、次に自分が何を言おうかと考えている(なので人の話はあまり聞いていない)」と豪語する。日本人は一般的に「うんうん」と相手の話を聞き、多少意見が違っても「そうだねぇ」と相づちを打つ人が多いような気がするが、フランス人は他の人の話の途中でも、隙を見つけては「でもさぁ」と自分の話を始めてしまう。話を遮られた方も特に気を悪くする風もなく、他の話し相手を見つけて持論の続きを展開していたりする。おそらく、発信することには熱心だが、受信にはそれほど頓着しないのではないか。
最近、パリに発足した人工知能(AI)研究である非営利団体Kyutaiが、「100%メイドインフランス」のAI音声アシスタント「Moshi Voice AI」のプロトタイプを公開したのだが、これが在フランス日本人の仲間うちで話題になった。このAIは、実際の俳優の声を出力に用いて、ささやき声を含む70トーンという多彩な表現力を実現する。より人間らしい対応を可能にしたかなりの優れものであるにもかかわらず、「相手が返事をしても遮って話し続けてしまうという欠陥がまだある」というのだ。100%フランス製のAIならではの、あまりにもフランスらしい欠陥ではないか。ちなみにKyutaiは日本語の「球体」、Moshiは電話の応答の「もしもし」を由来としているそうだ。人の返事を遮って話し続けてしまうAIは、日本人的には確かに「も~しも~~~し?!(人の話を聞いていますか~~~)」ではある。命名にフランス人のセンスを感じた。
国が違えば慣習が違うのも当たり前だ。いまさら、フランス人旅行者が日本の家屋に土足で上がることはないだろうし、日本人旅行者がフランスでレストランに入りおしぼりを探すこともないだろう。しかし、意外と知らない違いはあちこちにあり、その違いが些細なものであるほど見逃しがちで、見つけた時には「はっ」とする。
筆者の一時帰国に同行して日本にやってきたフランス人の夫は、いの一番に「なぜ日本人は自分が通ったあとの扉を次に通る人のために押さえておかないの?」と聞いてきた。フランスでは手動で開ける公共の場のドア、例えば地下鉄の改札口やデパートの出入り口のドアを、自分が通った直後に通るすぐ後ろの人のために軽く押さえ、半開きの状態で後続の人にバトンタッチする習慣がある。夫は日本でデパートに入ろうとして、自分の目の前でドアを通過した人が当然ドアを押さえておいてくれるという前提で前進したのに、そうではなかったため、無慈悲にピシャリと閉まる重厚なドアにぶつかってしまったそうだ。「日本人は礼儀正しいはずなのに!」とプンスカしていたが、これも礼儀ではなく慣習の問題だろうか(とはいえ、最近は欧米流に扉をバトンタッチする人も増えているようだが)。
旅行のツアーコンダクターをしている友人が、日本人とフランス人の団体旅行客のビヘイビア(態度、振る舞い)の違いを教えてくれたことがあった。「○○広場で××時に集合してください」とお願いして自由行動をした後、日本人は集合時間の少し前に広場の中央に全員が集団で「わかりやすく」集まっているのだそうだ。一方、フランス人はというと、集合時間になっても広場に集まっていない。よく見ると、広場の端の方に一人、少し離れたところにまた一人、さらに別のところに一人と、一応ほぼ全員が「広場内」には戻っているようだが群れてはいなかったという(もちろん集合時間に遅れる人もいただろう)。ライオンとトラの習性の違いみたいなものだろうか。
筆者の大学時代の話である。デカルト研究を専門としていた指導教授は「フランス人と日本人の哲学者の違いを知っていますか?日本人は難題を考える時に、あぐらをかいて、腕を前で組んで、下を向いて目をつぶって、うつむきながらうんうんと考える人が多いようですね。フランス人は、手を後ろで組んで、目を見開いて上を仰ぎ見ながら、しかも部屋の中を歩き回りながら考える傾向があります」と言っていた。若干眉唾だが面白い視点だ。
「日本とフランスのビヘイビアの違いって何だろう?」と友人に聞いたところ、「写真を撮られる時のピースサイン」という答えが返ってきた。写真撮影時にピースサインをするのは日本人だけだというのは有名な話で、NHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる!」のチコちゃんによると、発祥はタレントの井上順氏だそうだ。一方、フランスでは、もちろん写真のポーズとしてピースサインはしないし、中学生の息子が学校で習ってきたところによると、これが挑発のサインと受け取られることもあるという。
イギリスとフランスで起きた百年戦争の時、仏軍は英軍の優秀な弓兵を前に苦戦を強いられた。仏軍は英兵を捕らえると、弓がひけないように人さし指や中指を切ってしまったという。英兵はこの仏軍の仕打ちに対して「この指を切れるものなら切ってみろ」とピースサイン(または中指を立てたサイン。一般的には性的な意味があるといわれるが、この「百年戦争説」もある)をして仏兵を挑発した、という逸話を聞いたことがある(真偽は定かではないが)。「写真を撮ってください」とカメラを渡されたフランス人が歴史ヲタクで、ピースサインをしたらカメラを地面に叩きつけられた、などということにならないように気をつけたい。
こういったボディサインの違いもいろいろある。フランス人は数を数える時、ゲンコツをゼロとした状態から1つ数が増えるごとに親指→人さし指→中指→薬指→小指の順にあげていく(「4」あたりは小指がキツいので試してほしい)。日本では、人さし指→中指→薬指→小指→親指の順が一般的だろう。また、手招きする時には、日本人は手のひらが下向き、フランスでは手のひらが上向きで「おいでおいで」とする。自分を指さす時は、日本では「人さし指で鼻を指す」が、フランスでは「親指で胸を指す」などなど。
慣習やビヘイビアではないが、日本からの出張者が「標識」の違いを指摘した。フランスの空港でトイレに行きたくて標識を探したところ、トイレのマークと共に下を向いた矢印が書いてあったという。階下におりるための階段もエスカレーターも見当たらないが、と困惑したそうだが、フランスでは下向きの矢印は「前進、前方」の意味だ。日本では、「前進、前方」を意味する矢印は上向きである。この違いに気づかず、存在しない階下を延々と探し続けてしまう日本人もいるかもしれない。
こうした日本とフランスの違いに思いをはせてみたのも、2024年6月の欧州議会選挙の結果と、それに続くマクロンフランス大統領による解散総選挙の決定、さらには決選投票におけるどんでん返しに衝撃を受け、「これは日本では、起こりえないのでは」と思ったからだ。
事前の予想通り、6月上旬に実施された欧州議会選では、欧州全体で右派・極右勢力が躍進した。フランスでも極右政党の国民連合(RN)が勝利し、マクロン大統領はこれを受けて、解散総選挙を行うと発表。解散総選挙という決断は予想外で、マクロン大統領の真意をめぐる臆測が飛び交ったが、大方はこれを「危険な賭け」とみなし、極右政権誕生は不可避かと思われた。6月30日の第1回投票では、RNが約30%の得票率を得てやはりトップになり、ついにフランスに極右政党所属の首相が誕生するか思われた。だが、その瞬間にフランス人は動いた。
それまでいがみ合っていた左派連合「新民衆戦線(NFP)」と中道の与党連合を中心とする他の政治勢力が、極右RN阻止を目的として団結した。そして、3人以上の候補者が決選投票への進出権を得た選挙区で、下位となった候補者が立候補を取り下げることで、RN以外の候補者に票を集める戦略に出たのだ。自らの勢力の候補者を辞退させてまで、「対極右」をスローガンに有権者の糾合を図った。こうして候補者が三つ巴となった300余りの選挙区のうち、200以上の選挙区で下位の立候補者の取り下げが実現した。それでも有権者がこの政治家の動きに同調するかどうかは「賭け」だったわけだが、7月7日の決勝投票は、NFPが最大勢力となり、これに与党連合が続くという展開になった。政治勢力それぞれの思惑や駆け引きもあったのかもしれないが、ほぼ確実視されていたRNの勝利を阻止できたのは、自国に極右政権を樹立させてはならないという一心で、極右以外の政治家と国民が瀬戸際で団結したからだろう。
フランス国民は、これまでも極右候補者の当選を阻止してきた。普段は個人主義的で、他人のことにかまわず、下手すると利己的に見えかねないフランス人だが、いざという時の団結力には目を見張るものがある。例えば、シャルリー・エブド襲撃事件やパリ同時多発テロ事件発生後の団結力。思想や信条を超えて国が一丸となって悲しみや怒りをあらわにし、理不尽で無差別なテロに断固反対する強い意志を見せたが、その熱量は、日本人の筆者からみるとすさまじいものだった。さすが革命を起こし、国王を断頭台に送った国民だと感じた。普段は他人に無関心で、自己主張が激しいといわれるフランス人だが、理不尽な暴力や民主主義の危機を前にすると、瞬時に結束できる底力があるようだ。
日本における最も理不尽な暴力、それはおそらく「自然災害」だろう。日本は阪神・淡路大震災や東日本大震災をはじめとする大規模な自然災害に何度も直面し、日本国民も理不尽な暴力に深く悲しみ、怒ってきた。しかし、テロが作為的であるのと違い、自然災害は無作為だ。震災後の日本人には、悲しみや怒りとともに、「自然を超えることはできない」という諦観もあるように思う。震災後の混乱の中で、デモも略奪も起こらず、悲しみや怒りを内に秘めながら黙々と復興に努める日本人の国民性には、しばしば欧米から称賛の声があがる。自然の理不尽な暴力に対して、日本人は受け入れ、粛々と対峙していくために団結する術を知っている。その団結にはフランス人が発するような瞬発的な熱はなく、あえて言葉にはしない普遍的な覚悟のようなものがある気がする。
では、集団への人為的な暴力や民主主義の危機に対して、日本人はどのように動くのだろう。フランス人のように団結して、「ノー」と言うだろうか。あるいは、日本人らしく諦観をもって受け入れるのだろうか。はたまた無言で抵抗を試みるのか。もちろん、そんな非常事態が、日本に起こらないに越したことはないのだけれど。
※本記事は、特定の国民性や文化などをステレオタイプに当てはめることを意図したものではありません。
(初出:MUFG BizBuddy 2024年7月)