「醜いフランス」はきれいになれるか?

投稿日: カテゴリー: フランス社会事情

フランス政府は2023年9月、モータリゼーション(クルマ社会化)が生み出した「醜いフランス」のシンボルとされる都市近郊の商業区域の再開発構想を提示した。国土の美観を改善するだけでなく、現代社会にふさわしいエコロジカルな生活様式を都市周辺部や郊外の住民にもたらすという触れ込みだ。だが、予算規模や目標の妥当性について懐疑的な反応も多い。

フランスといえば、世界有数の観光大国であり、優れた文化遺産、美食の伝統、エレガンスの代名詞とされる高級ブランド、そして多様で美しい景観を国際的に評価されている国というイメージが強いのではないだろうか。しかし、フランスにも美しいとは言いがたい場所はたくさんある。2024年、パリでは夏季オリンピックの開催を控えているため、対外的なイメージアップの必要性がいっそう高まっているせいか、フランス政府は2023年9月11日、重要課題の一つに「醜いフランス」の解消を掲げた。

ここで「醜いフランス」と訳したのは「la France moche」という表現で、mocheは「醜い、みっともない、ブサイクな、下劣な」などという意味合いの口語的な形容詞だ。念のために言っておけば、この言い方には「フランス(全体)が醜い」という意味はなく、「フランスの(中の)醜い部分」の総称という風に理解すべきだ。

では「フランスの(中の)醜い部分」とは具体的に何か。それは主に、中小地方都市の近郊にある道路沿いの商業区域であろう。フランス国内を車で移動すると、必ずと言っていいほど、都市部の入り口辺りで大型商業施設がいくつも連なるエリアに出くわす。英語では「リテールパーク」などと呼ばれるようだが、大手のスーパーマーケットやハイパーマーケット、ホームセンター、衣料品店、スポーツ用品店、家電量販店、ファストフード店などがぎっしりと集まっている。そして、顧客のほとんどが車で訪れるため、広い駐車場が併設されている。

たいていの買い物を同じエリア内で一気に済ませることができる便利さが利点だが、たしかにどの建物も靴の空き箱を思わせるような没個性的な直方体であり、機能性のみが優先され、建築上の工夫や飾り気などは一切ない。駐車場をはじめとして敷地内の地面は全て硬く舗装され、緑地はなく、大きな屋上看板や野立て看板がそこかしこに設置されている。住宅や公共施設などもなく、人は住んでいない。完全に商業活動に特化した区域となっている。

フランスの都市部では、中心街には通常は厳しい建築規制があり、建物のファサード(建物を正面から見たときの外観)や高さに一定の調和性を維持する配慮が行き届いていて、美観が重視されている。しかし、そこから車で少し郊外へ移動すると、近郊の道路沿いには美観を完全に無視した広大な商業区域が広がっているわけだ。

ただし、これを「醜い」と断罪すべきかどうかは別の話だろう。確かに無味乾燥な外観ではあるものの、居住区域ではないのだから、買い物に寄る時を除けば、日常的に目にせずに済むわけだ。特に意識しなければ、さほど気にならない……はずではないだろうか?

しかし、こうした商業区域の殺伐とした光景が国土の景観を損なっているまま放置しておくことはけしからん、という意見は根強くあるようだ。また、政府もそのように考えるからこそ、今回の対策を発表したのだろう。

実は「醜いフランス賞」(Prix de la France moche)という賞があって、国内で最も醜いと判断される区域のランキングが毎年発表されている。これは「都市ならびに非都市の景観を保護し、回復させ、その価値づけを高める」ことを目的に1992年に発足した「フランスの景観(Paysages de France)」というアソシエーションが毎年会員へのアンケートによってランキングを作成し、最も醜いと判定された市町村に授与しているものだ。2022年に受賞者に選ばれたのは、オービエール市(フランス中部、ピュイドドーム県)だった。ただし、これは同市が全体として醜いという意味ではなく、同市の商業区域が醜いという意味だとアソシエーションは強調しており、市当局の名誉に配慮している。ここでもやはり、近郊の商業区域がやり玉にあげられている。そして、アソシエーションの説明をみると、「醜さ」の主な要因が、ドライバーの目に訴えかけるための大きな広告看板の乱立にあることがわかる。

この不名誉な賞に選定された市町村からは、当然のことながら抗議の声が出ており、それにももちろん一理ある。無秩序な看板の設置が景観を破壊しており、「醜い」と判断するのは、必ずしも普遍的な価値観に基づいているわけではなく、社会や文化の変化がもたらした一種の「気づき」によって初めて成立するものだと考えることもできるからだ。

そもそも、今日「醜い」とやり玉にあげられている商業区域は、モータリゼーション(クルマ社会化)の発展に伴ってフランスの各地で雨後の筍のように出現したものだ。それが増殖する過程では、おそらく大多数の人が暗黙のうち受け入れたり支持していたりしたのではないだろうか。少なくとも、その利便性を評価していただろうし、美的側面には強い関心を払っていなかったと思われる。今になって、それが批判される背景には、クルマ社会化自体が現在のエコロジカルな観点から批判的な見直しを受けているという事情があるからだろう。

つまり「醜いフランス」という表現は、クルマ社会化の波に乗った一時期の国土整備のあり方に一石を投じる反省意識の表出である。しかし、このような遡及的な判断は、普遍的・恒常的なものではなく、現代の価値観を反映したものであり、時代性を帯びていることに留意する必要があるだろう。

実は「醜いフランス」という表現の歴史は比較的新しく、「テレラマ」という週刊誌が2010年2月12日号に掲載した「フランスはいかにして醜くなったか(Comment la France est devenue moche)」というルポルタージュ記事が発端といわれる。この記事の共同執筆者であるバンサン・レミとグザビエ・ドジャルシーの両氏は、1960年代から始まり1980年代に加速した、全国の道路網の急速な整備に伴って生じたフランスの社会と景観の変化を多数の証言とともにたどり直した。

隣のドイツなどに急いで追いつけとばかりに国が力を注いだ道路網の整備計画により、中小の地方都市近辺の農地が道路や駐車場に次々と転換された。特に、減速通行を強いられる都市中心部を迂回して、効率的な車の流れを促すためのバイパス道路が発達し、ラウンドアバウトが至るところに設置された。都市のすぐ外の周辺地区にはパビヨンと呼ばれる画一的な一戸建て住宅が続々と建設され、中心部に住居を確保する経済力がない住民が住み着いた。

こうした変化に敏感に適応した流通大手が活発に進出して、都市近郊の道路沿いに大規模小売店(ハイパーマーケットやスーパーマーケット)を開設した。そのため、商業活動の重心が都市中心部から郊外にシフトして、中心部の商業的空洞化が進んだ。郊外に念願の持ち家を得た住民は、自分が所属する都市の中心部を経由せずに、自宅の駐車場と遠方の大都市にある職場や近郊の大規模商業区域の駐車場を車で往復する暮らしを送るようになり、車なしには生活できない状況が一般化した。

1970年代までは国が決定してきた都市計画は、1980年代から民間主導になり、さらに1983年の地方分権化法によって、建設許可の付与権が全面的に市町村長に委譲された。哲学者のティエリー・パコ氏は「これが破局の始まりだった」と嘆き、「大多数の市町村長は都市計画に関して無能であり、趣味の悪さがさらにひどくなっている」と指摘、不動産プロモーター任せの画一的なデザインの住宅建設が進んで「今の醜いフランス」につながってしまった、と批判した。

テレラマは、このパコ氏の「醜いフランス」という表現に注目して、表紙に看板が林立する典型的な商業区域の写真と「醜いフランスを阻止せよ!(Halte à la France moche !)」という強烈なタイトルを掲げた。バンサン・レミ氏によると、この表紙は当時編集部にいた夫人のアイデアだったそうだが、これに予想以上の反響があったという。なお、この記事は今でもテレラマのサイト上で閲覧可能であり、累積での閲覧回数が最も多い記事の一つとなっている。

「醜いフランス」という表現は、テレラマをきっかけにフランスメディアで定着したようだが、生みの親であるパコ氏が直接に批判していたのは、むしろ都市周辺地区に続々と建設された画一的な一戸建て住宅群のほうであった。主に商業区域を批判する現在の用法は、テレラマによる拡大解釈が起源と言えそうだ。なお、レミ氏は記事執筆の意図について、「1960年代から都市部の延長が農村部を侵食し始めたが、これは不可避の現象だったわけではなく、政治的・経済的な選択の結果だった」ことを示し、「商業区域と建売住宅の無秩序で反エコロジックな発展」を糾弾するのが狙いだった、と回想している。

当時も記事には反発の声があった。都市周辺や郊外の住民自身が批判するならともかく、都市中心部に住むブルジョア階層が上から目線で「醜い」と批判するのは、差別的であり、不当だとの反論が寄せられた。これにはテレラマという週刊誌の少し特異な位置づけも手伝っていたに違いない。

テレラマはその名前が示唆しているように、テレビ番組雑誌だ。しかし、大多数のテレビ番組雑誌が大衆的な雑誌であるのに対し、テレラマはメディア批評誌的な立ち位置の高級誌である。そのため、政治や社会の動向に対してオピニオンリーダー誌的な役割を担ってきた伝統がある。カトリック系なので、左派系雑誌のようは過激な立場は取らず、むしろ良識的で穏健な立場を代表しており、読者層もいわゆる「意識高い系」の人が多いとされる。書き手も「良心的知識人」というイメージで、それゆえに、その見解は庶民層から「安全地帯からの批判に過ぎない」との反感を買うこともある。

こうした階級意識に基づく反論の声は、特に左派系メディアから出たようだが、その主張は要するに「確かに上級市民の審美感に照らすと醜いのかもしれないが、これが我々庶民の日々の暮らしの現実であり、それ以外に選択の余地がなく、美的問題に心を悩ます余裕すらないのだ」ということだろう。

おまけに景観の美を巡る議論には主観が絡むため、結論の出ない水掛け論になりがちだ。とりあえず、派手な色彩の看板が乱立する光景をおぞましいと感じる人が階級差を超えて多いだろうことは認めて、この議論は打ち切ることにしよう。

それでは政府はこうした「醜いフランス」をどうしようというのか? ここでは政府の政策案を詳しく紹介するのが目的ではないので、簡単に述べれば、30カ所前後の商業区域を選定し、官民協力を通じた再開発に向けてプロジェクト募集を行い、総額2,400万ユーロほどの補助金を供与する予定だという。政府はこの政策を単なる美観の問題ではなく、エコロジックな観点に基づく、生活様式の転換を後押しするものだと説明している。大量消費、1人1台の自家用車、各世帯に1戸の独立住宅など、20世紀式のライフスタイルを体現する存在がこうした商業区域であるとしている。これを住宅、オフィス、公共施設、緑地なども備えた、より美しく暮らしやすい街として再生させるのが目的だという。

ただし、政府の発表に対してメディアからは懐疑的な反応も少なくない。例えば、左派系のリベラシオン紙は、全国に1,500カ所もあるという商業区域のうちのたった30カ所を対象としている点や、予算額が1カ所当たりでは100万ユーロ足らずに過ぎない点を計画に照らして不十分だと指摘した。その上で、仮にこうした政策が実現したと想定した場合、都市の中心街の魅力が相対的に低下して、周辺地区や郊外に対する最後の強みを失ってしまう結果になるのではないか、という地理学者の見解を紹介している。

「醜いフランス」という表現の元祖であるテレラマも、政府の発表を受けて「本当に実現できるのだろうか。また、できるとしても、流通大手企業が自社の利益だけを狙いに構想した都市計画の間違いをなぜ国が尻拭いしなければならないのか」などと懐疑的な論評を発表した。

そもそも、もう一度、当事者の見地に立ち返れば、たしかに「醜い」のかもしれないが、機能的で便利な商業区域を重宝している住民は今も少なくないはずだ。そういう当事者にとって政府の構想は、余計なお世話に過ぎないだろう。政府が、例えば地方の公共交通機関網をもっと密に整備してくれれば、電車やバスが利用しやすくなり、自然にクルマ依存から脱却できるのではないか。政府は、こうした現場の声にこそ、もっと耳を傾けてみてはどうだろうか。

参考資料
https://www.7joursaclermont.fr/prix-de-la-france-moche-la-triste-banalite-pour-la-zone-daubiere/?cn-reloaded=1

https://www.sudouest.fr/culture/medias/la-france-moche-d-ou-vient-cette-expression-16607278.php

https://www.lesechos.fr/industrie-services/immobilier-btp/le-gouvernement-sattaque-a-la-france-moche-1976910

https://www.liberation.fr/idees-et-debats/tribunes/a-quoi-bon-embellir-la-france-moche-20230920_RUJYQZAV6JANXNY7ZPXOIFXNWA/?redirected=1

https://www.telerama.fr/monde/comment-la-france-est-devenue-moche,52457.php

https://www.telerama.fr/debats-reportages/la-fin-de-la-france-moche-l-etat-l-annonce-mais-peut-on-y-croire-7017107.php

(初出:MUFG BizBuddy 2023年10月)