フランスでは2020年12月末から新型コロナウイルスワクチンの接種が開始されたが、他の欧州諸国と比べてその進捗は遅れている。その背景には、ワクチン忌避の傾向が強い国民性と、これを考慮した政府の慎重過ぎる対応がある。しかしイギリス変異種の影響で、ワクチン接種を受け入れる気運が高まっている。
フランスの著名な哲学者、ミシェル・オンフレ氏は、2020年末にメディアで、新型コロナウイルス感染による重症化体験を繰り返し語ったが、その際に、新型コロナウイルスワクチンの接種についても見解を披露し、「共和国の子どもとして、学校でパスツールの業績やワクチンについて学んだ」立場から、ワクチンを危険だと批判し接種を拒否することは、ニヒリズムであり、非理性的で無責任な利己主義にほかならないと批判した。同氏はアジアにおけるマスク着用の習慣を例に挙げつつ、ワクチン接種の意味合いはマスク着用と同じく、自分を守るだけが目的ではなく、他者を保護するためでもあることを強調し、市民の義務として予防接種を受けるべきだと指摘した。
同氏はフランスの論壇のインフルエンサーの一人だが、そういう人物が予防接種の重要性を強調しなければならないほど、新型コロナウイルスワクチンに対するフランス人の拒否反応は強かった。
「パスツールの国なのに…」
周知のように、ワクチンは18世紀末にイギリスのエドワード・ジェンナーが開発した種痘法を嚆矢とするが、その原理を解明して、ワクチンの製造法を開発したのは1870年代のフランスのルイ・パスツールの画期的な業績だった。しかし、パスツールはジェンナーの功績を称える意味で、牛痘を意味する「vaccine」から派生した「vaccin(ワクチン)」を感染症予防の医薬品を意味する一般用語として定着させた。パスツールはワクチンによる感染症対策の生みの親であり、フランス人がこれを非常に誇りにしていることは言うまでもない。
それにもかかわらず、フランスはワクチンに懐疑的な人の割合が世界でも最も高い国の一つとして知られ、医療関係者を悩ませている。いや、実を言えば、医療関係者の間でも、新型コロナウイルスワクチンについては、懐疑論が聞かれるのが実情だ。
もちろん、どの国にも、一定数のワクチン忌避者がおり、それにさまざまな(政治的、思想的、宗教的など)色付けを行ってワクチン拒否運動を展開する人々も次々と出てくる。フランスだけが特別なわけではない。ただし、宗教などの影響が比較的弱く、デカルト以来の合理主義の伝統を誇りとする国民性にもかかわらず、フランス人のワクチンに対する不信感が強いことは意外感を誘う。「パスツールの国」でありながら不思議だとしばしばいわれるのも無理はない。
フランスでワクチンに対する不信感が根強い理由は何だろうか。さまざまな要因が指摘されているが、公衆衛生問題に詳しい地政学研究者リュシー・ギミエ氏によると、宗教やイデオロギーの面では、カトリック教の伝統的な信者層や、ドイツ由来の人智学の信奉者の間では、ワクチン忌避の傾向が特に強いという。カトリック教会も人智学も表立ってワクチンを批判してはいないが、例えば2008年から2012年にかけて麻疹が流行し、2万2000人が感染した際に、こうした集団に所属する人々が多い地域で特に感染が目立ったことが統計的に確認されているそうだ。また米英由来のニューエイジの影響も指摘される。さらに、リフレクソロジー、アプライドキネシオロジー、耳鍼療法のような代替医療の普及もワクチン忌避の動きと連動している。こうした代替医療は、最近では部分的に病院でも行われているだけに、ワクチン忌避を正当化する疑似科学的な論拠にもなりやすい。最近ではSNSなどを通じた陰謀論の浸透も、ワクチンに対する不信感を煽っている。予防接種キャンペーンの背後には、実際には効力がなく不要なワクチンを販売しようとする製薬会社などの経済的利益追求があり、国際機関や政府もこれと癒着しているという陰謀論が典型的だろう。
しかし、陰謀論の影響を専門とする社会科学研究者アントワーヌ・ブリスティエル氏(ジャン・ジョレス財団)は、ワクチン忌避者は必ずしも陰謀論者だけではなく、若者、女性、極右支持者、極左支持者、環境派支持者にも多く、医療関係者の間ですら毎年インフルエンザワクチンの接種を受ける者は3割以下だと指摘し、その背景には、科学者に対する信頼感の全般的な低下があると判断している。
これはより一般的に、権威者の信頼性の低下という社会的現象と関連している。ワクチン忌避に詳しい専門家の多くは、近年の一連の医療スキャンダルや、ワクチンに関する過去の失政(特に2009年にH1N1亜型による新型インフルエンザのワクチンをフランスが9,400万回分も注文し、結果的に1,200万回分を破棄した事件など)を通じて、国民が医療当局や政治家に対する不信感を強めたことが、ワクチンへの不信感を助長していると指摘している。
しかも、新型コロナウイルス対策の初動時に、医療専門家と政府がマスク着用の是非やマスクの供給能力などについて、矛盾した発言を行ったり、方針を180度変更したり、不都合な事実(マスクの在庫が不十分で、一般市民の着用を義務付けた場合に供給できない)を隠したりしたことで、国民の信頼はいっそう低下した。新型コロナウイルスの脅威に関する評価でも専門家の意見はまちまちで、南仏の有名な医師・研究者などは、夏になれば自然消滅すると自信たっぷりに予言していたが、事実によってこれが否定されても、一切弁明も反省もしていない。こうした態度が、先行きの不透明さに不安を強める国民に、「専門家は信用できない」という不信感をもたらした。
もちろん、新型コロナウイルスという未知の現象を前にして、こうした混乱は多かれ少なかれ他の国でも起きたので、フランスで特にワクチンに対する不信感が強いことの決定的な説明にはならない。そこで、フランス人は伝統的に権威に批判的で、反抗的なことが国民的な特徴だと説明する向きもあるが、「国民性」は特性の記述にはなり得ても、その原因の説明にはならないので、謎は残る。
ワクチン接種の意味合い
ここでいったんワクチンの意味合いに関する基本に立ち返ってみよう。世界的な課題となった新型コロナウイルス対策では、過去に前例のない高速度でワクチンが開発され、医学史上の快挙と称賛されている。しかし、この成果を十全に活用するためには、速やかな予防接種の実現が不可避であり、ワクチン忌避の問題を克服することが重要になる。
確かに新型コロナウイルスワクチンが1年足らずという異例のスピードで開発されたことは諸刃の刃とも言え、その安全性や効果については、既存のワクチン以上に未知数の部分が多い。しかも、最初に承認を受けた2種類のワクチンはいずれも史上初のmRNAワクチンであり、この画期的な新技術にかえって不安を感じる人も多いという。
そうした心理的抵抗は理解できるものの、新型コロナウイルスのような大規模な感染症の伝播を食い止めるためには、人口の一定比率以上が予防接種を受けて免疫を形成する必要があり、接種を拒否する人が多すぎれば、せっかくのワクチンの効果は薄れてしまう。少数の人しか予防接種を受けていない状況では、もちろん接種を受けた人自身には、感染しても軽い症状で済むという利点があるだろうが、感染の拡大を防ぐには役立たない(そもそも予防接種で免疫が形成されても、必ずしも感染を阻止できるわけではない)。法律で接種が義務付けられているワクチンが複数あるのも、過去に重大な被害をもたらした感染症を根絶するためにはそれが不可欠だからで、予防接種を受けることは相互に他者を保護し合うための行動であり、いわば集団責任である。
慎重過ぎたフランス政府
さて、欧州連合(EU)では2020年12月末から新型コロナウイルスワクチンの接種が開始されたが、国によってその手順は異なり、進行にも違いがある。ドイツやデンマークが急ピッチで接種を進めている一方で、他より遅れて1月から開始したベルギーやオランダのような国もある。フランスは12月27日に接種を開始したが、最も進み具合が遅い国の一つとなっている。ドイツは他のEU諸国よりも1日早く12月26日に接種を開始し、12月28日の時点ですでに4万人以上に接種を行ったが、フランスでは28日までにわずか70人に接種したに過ぎず、2021年1月1日までに516人(ドイツは20万人超)、1月5日の時点でもまだ5,000人にとどまっていた。
フランスでもそれ以後は接種が加速して、1月13日には予防接種者数は25万人近くに達したが、イタリアの80万人超(1月12日)、ドイツの69万人弱(1月11日)、スペインの49万人弱(1月12日)と比べて遅れが目立つ。なお、EUから離脱したイギリスは、ワクチンの承認、購入、接種でEUに先行しており、すでに280万人(1月11日)の接種を済ませた。
フランスの接種が遅い原因の一つは、政府の極めて慎重な対応にある。どこの国でも、最初は優先接種対象者に的を絞って取り組んでいるが、優先順位の付け方には相違がある。フランスでは、「Ehpad」と呼ばれる高齢者施設の入居者をまず優先対象に選択した上で、接種希望者の各人に対する事前のインフォームドコンセントを徹底した。入居者の中には、説明を十分に理解し判断できる能力がない人も多く、その場合には本人の代わりに家族や本人が信頼する代行決定者の合意を得ることを義務付けた。こうした手順には時間がかかり、これが接種のスロースタートの一因となった。
政府は当初、高齢者施設の接種を終えた上で、1月半ばから50歳以上の医療従事者への接種に着手する予定だったが、近隣諸国と比べて余りに進捗が遅いと野党や世論から批判されたせいもあり、医療従事者への接種を1月4日の週から前倒しで開始した。
政府が定めた手順は慎重過ぎて、これでは予防接種者が一定の割合に達して効果を発揮するまでにどれほど時間がかかるか分からないと揶揄されたが、その背景には、ワクチン接種に後ろ向きな国民を安心させるために、一つの間違いも犯さずに、透明な形で接種を進めて、国民の信頼を勝ち取り、世論の流れを変えたいという配慮があった。12月末に、予防接種キャンペーンの責任者であるフィシェール教授(免疫学)は「必須とみなされるワクチンに関して、国民の反感を招いてはならない」と強調し、ヴェラン保健相も「急ぐことと慌てることは違う。啓蒙と説明に時間をかける」と予告していた。
しかし、これに対しては、ワクチン懐疑論の影響力を過大評価しているのではないかとの批判もあり、政府も1月に入ってから方針を部分的に見直した。ただし、12月中に発表された世論調査の結果を見る限りでは、政府の慎重な姿勢も分からないではない。
例えば12月29日に報じられた世論調査(Ipsos Global Advisorが世界経済フォーラムと協力して、12月17日から20日にかけて15カ国で実施)によると、新型コロナウイルスワクチンの接種を受ける意思がある者の割合は、フランスでは40%に過ぎず、15カ国中で最低だった。ロシア(43%)も50%を割り込んだ。南アフリカ(53%)、日本(60%)、イタリア(62%)、スペイン(62%)、ドイツ(65%)などでは接種を受ける意思がある者が過半数を占めた。米国(69%)、英国(77%)、ブラジル(78%)、中国(80%)ではより積極的な傾向が見られた。
新型コロナウイルスワクチンの接種を受けたくない理由としては、副反応の不安を挙げた者が多くの国で非常に多く、ワクチンの効果に対する疑いを挙げた者が2番目に多かった。なお、同様の調査が2020年8月と10月にも実施されたが、フランスでの接種を受ける意思がある者の割合は順に59%と54%で、接種開始を控えて12月には低下が鮮明になった。また、12月の調査で、新型コロナウイルスワクチンに限らず、ワクチン一般に反対する者の割合は、韓国(7%)、日本(8%)、中国(9%)では10%未満だが、フランスでは14%に上った。これは有意な差異と言えそうで、最初に述べた通り、フランス人のワクチン嫌いを裏付ける調査結果となった。
1カ月で過半数に転じたワクチン接種受け入れ
ただし、ワクチン懐疑論者の多くは確固たる信念があるわけでもなく、意見が変わりやすいとも指摘されており、事実、1月に実施された一連の世論調査では、新型コロナウイルスワクチンの接種を受ける意思のある者の割合が軒並み上昇した。アメリカの世論調査大手のHarrisの調査では56%、フランスの世論調査機関IFOPの調査では51%に上り、1カ月ほど前の調査時と比べて10ポイント以上の上昇を記録し、過半数を占めた。それでも45%ほどは、まだ、接種に後ろ向きなことに留意する必要はあるが、ワクチン接種に関するフランスの世論は急速に変化しつつある。
その原動力は、実はイギリスで発見された変異種の登場だという。感染力が従来種よりも最大で70%高いと言われるこの変異種は、イギリスやアイルランドで猛威を振るい、他国でも強い不安を招いており、この不安がフランスでもワクチン接種の希望者を増やす原因となったと見られている。変異種の感染が拡大すれば、先行きはますます見通せない状況になり、制限措置も継続される。こうした情勢により、ワクチンの効果で正常な生活を取り戻したいと考える人がかえって増えていると考えられる。
なお、一部の新たな変異種はワクチンが効かない恐れもあるが、イギリス変異種にはワクチンが効力を発揮すると見られている。ワクチンが期待通りの効果を発揮して、懐疑論を払拭して欲しいものだ。
(初出:MUFG BizBuddy 2021年1月)