辺境の軍隊駐屯地だったフランスのグルノーブルが、ハイテククラスターへと変貌を遂げた。その背景を国際政治の影響などの視点から考察し、一地方都市の経済開発の成功例を紹介する。
フランスには、パリ近郊のサクレーや南フランスのソフィア・アンティポリスなどのハイテククラスターが幾つか存在するが、アルプス山脈の麓の盆地であるグルノーブル近郊にも、フランスを代表する大規模なハイテククラスターが形成されている。グルノーブルという地名は国際的にはあまり知られていないが、世代によっては札幌オリンピック(1972年)の前の冬季オリンピックが開催された場所として記憶に残っている方もおられるだろう。
さて、そのグルノーブルだが、三方をシャルトルーズ、ヴェルコール、ベルドンヌという大山塊に囲まれた狭い盆地であり、発展の余地が限られている上、イタリアとの国境に近いこともあり、1960年代まではフランス軍の大規模駐屯地としての性格が強かった。今でも、街を横切って流れるイゼール川の川沿いにそびえるモンラッシェ山には、ラ・バスティーユと呼ばれる岩肌をくり抜いた要塞(ようさい)の名残がある。ラ・バスティーユは、現在ではグルノーブルの観光名所の一つだ。
グルノーブルでは、アルプス山脈での水力発電による豊富な電力を生かしたアルミニウム製錬や、付近の石灰岩を原料としたセメント製造などの産業もある程度発達した。しかし、この地場産業が都市に豊かさをもたらしたとは到底言い難く、交易の中心地として早くから発達した隣の大都市リヨンには長らく後塵を拝していた。
しかし、現在のグルノーブルとその周辺は、最先端技術の研究開発(R&D)が積極的に推進される世界有数のハイテククラスターに生まれ変わっている。米フォーブス誌の世界発明数ランキングでは、アイントホーフェン、サンディエゴ、サンフランシスコ、マルムーに続いて第5位につけている。各種研究施設の総雇用者数は2万5000人に達し、労働力人口の28.5%を占め、フランスの平均の9.5%をはるかに上回る。また高等教育修了者の割合も多く、総人口(学生を除く)のうち44.8%(フランスの平均は21.9%)に達する。
そのグルノーブルへの寄与に関して、本稿にて後により詳しく紹介する原子力・代替エネルギー庁(CEA)グルノーブル研究所、そしてCEAに付属する電子情報技術研究所(LETI)、さらに国立科学研究センター(CNRS)、高圧物理学・モデリング研究所(LPMMC)、欧州シンクロトロン放射光研究所(ESRF)、ラウエ・ランジュバン研究所(中性子を利用した核物理学研究所)など、国際的知名度の高い欧州レベルの施設が5カ所、国立研究所8カ所、グルノーブル アルプ大学付属の研究施設200カ所以上が所在している。
このような高度なR&Dの基盤を背景に、多くの大企業やスタートアップ企業がグルノーブルおよびその周辺に拠点を構え始めた。大手では、スイスの半導体メーカー、STマイクロエレクトロニクス(フランス・イタリアの企業合併を経て誕生)、フランスの重電メーカー、シュナイダー・エレクトリック、フランスのITコンサルティングサービス、キャップジェミニやアトス、米国のIT大手ヒューレット・パッカード(HP)、フランスの産業用ガス、エア・リキードがグルノーブルに拠点を有している他、同市近郊のクロールには、SOI(Silicon On Insulator)半導体で知られるフランスのソイテックが本社を構えている。
また、スタートアップ企業も数多く、代表的なものとしては、民生用ドローンのデルタ・ドローン、プロトタイプ委託生産のCiprian、有機センサーのISORG、非冷却型赤外線センサーのULISなどが挙げられる。スタートアップ企業ではないが、米国のアップルも、2015年にグルノーブルに光学センサー研究所を開設しており、上記のSTマイクロエレクトロニクスと共同でクリーンルームも開設した。STマイクロエレクトロニクスは、以前からアップルの納入業者の一つであり、現在もアップルのiPadやiPhone向けにモーションセンサーやジャイロスコープ、加速度センサーを納入している。
アップルの光学センサー研究所開設が示すように、グルノーブル近辺にはセンサー関連のR&Dを行っている企業が集積しており、この辺りを「センサーバレー」と呼ぶ関係者も多い。今後発展が予想される自動運転車では高性能センサーが必須であることから、そのポテンシャルは極めて大きいと思われる。
このようなグルノーブルのハイテククラスターとしての発展には、ノーベル物理学受賞者であるルイ・ネール氏の主導で1956年に設立された、前述のCEAグルノーブル研究所が大きく貢献している。CEAグルノーブル研究所は、軍隊駐屯地からハイテククラスターへの変身というグルノーブルの歩みを象徴するかのように、軍の演習場跡地に建設された。同研究所では、設立当初は研究用原子炉により核研究が行われていたが、現在では、原子炉は解体されて核研究は行われておらず、マイクロ・ナノテクノロジーの応用研究が主体となっている。
CEAグルノーブル研究所設置を機にその後、同研究所の周辺には、CNRSやESRFなどの研究施設が相次いで設置され、一大研究拠点が形成された。これらの研究施設は、産学協同に非常に積極的であり、多くのスタートアップ企業が生まれるゆえんになった。例えば上記のソイテックは、LETIの2人の研究者により創設された。またISORGも、CEA傘下の新エネルギー技術・ナノ材料開発センターからのスピンオフだ。ISORGは、ガラスやプラスチックにプリント可能な有機光学センサーを実用化している。
グルノーブルを中心とした大規模なR&D拠点の形成には、軍の撤収後の地域経済振興という国の政策の後押しがあったことは間違いないが、この都市に、水力発電用機器の生産を背景とする技術的な基盤があったことも無視できない要素だ。もう一つ見逃せないのは、国際政治の影響である。既に記載したように、グルノーブルの研究施設の大半は、軍演習場跡地に建てられている。これが可能となったのは、欧州統合の進展があったからだ。欧州統合が進み、イタリアとの紛争の可能性が消えたことにより、グルノーブルに大規模な軍が駐屯する必要はなくなったのだ。
グルノーブルはこうして「辺境の街」ではなくなったが、軍が撤収したことにより、経済的・空間的に軍が残した穴を埋めるという緊急の課題が浮き彫りになった。その穴を埋めたのがCEAなどの研究施設だったわけだ。
また、欧州統合の進展は、STマイクロエレクトロニクスがフランス・イタリア両国の資本であることが示すように、欧州レベルでの協力の可能性も生んだ。このように見ると、グルノーブルは欧州統合の恩恵を最も受けているフランスの都市の一つだということが分かる。グルノーブルには、ESRFなど欧州レベルの研究施設も多く、街中ではフランス語以外の言葉もよく耳にする非常に国際的な都市である。
このように、国際政治の帰結として、辺境の軍駐屯地が大規模なハイテククラスターへと変身を遂げた歴史を持つグルノーブルは、フランスの地方経済開発の成功例といえ、これは、大地震などの被災地の再開発を迫られることが多い日本にとっても参考となるのではないかと考えられる。
余談になるが、グルノーブル・オリンピックでは「男と女」などで知られるクロード・ルルーシュ監督により「白い恋人たち」というタイトルの記録映画が製作された。フランシス・レイ作曲の叙情的なテーマ曲と「白い恋人たち」というロマンチックなタイトルと相まって、日本でも結構ヒットした。
ところで、この映画の原題は「Treize jours en France(フランスでの13日間)」という非常に散文的なもので「白い恋人たち」という邦題とかなりかけ離れている。この邦題は、映画配給会社の人が、ルルーシュ監督の作品ならば恋愛物だろう、と思い込んでつけた仮題がそのまま採用されたという説があるそうだ。この説によると、原題と日本語タイトルの間の乖離(かいり)がうまく説明できるが、散文的なタイトルでは客が入らないと考えた映画会社の苦心の産物だったのかもしれない。いずれにせよ、映画そのものは、ドキュメンタリーの傑作とされているので、本稿でグルノーブルに関心を持たれた方にはぜひご視聴いただきたい。
(初出:MUFG BizBuddy 2018年2月)