国連の世界幸福度ランキングなるものが毎年発表されるたびに、違和感を覚えてしまう。もちろん、「Happiness」という言葉をそれほど強い意味合いに受け取る必要はなく、「happy about」とか「happy with」という表現は、ごく普通の満足感を示すに過ぎない軽い表現だ。しかし、それにしても、自己申告による「幸福度」調査には納得できない部分が残る(幸福かどうかは主観的なものだから、自己申告以外にありえない、という点はともかく)。
フランスの人気作家ミシェル・ウエルベックの詩や小説には「幸せ(bonheur)」という言葉が頻出する。幸せとか幸福という、陳腐で大衆的で、口にするのが気恥ずかしい感のあるテーマを、あえて正面から率直に取り上げてみせたのはウエルベックの功績の一つだろう。ウエルベックの小説に登場する中年男性は、それなりの所得や社会的地位があり、配偶者、恋愛の相手、セックスフレンドなどもいて、外から見れば、幸福な部類に入るはずなのに、満足感や幸福 感を得られず、不安、不満、喪失感、欠如感、無力感などにつきまとわれる。各人のパフォーマンスが厳しい競争と評価にさらされる現代社会において、幸福は競って達成すべき究極の目標だが、そのような営みを通じてでは楽園に決して到達できない。いや、現代社会に限らず、パフォーマンスの達成度が必ずしも幸福の実現に繋がらないというのは、ありふれてはいるが、古くて新しい永遠のテーマでもある。そして、幸福は必死に追い求めても得られないが、実はすぐ手の届くところにあるのに(あるいは、すでに手にしているのに)当人が気づかないだけ、というのも「青い鳥」から「Let her go」(パッセンジャー)に至るまで、様々に変奏されてきた古くて新しいテーマだ。実際に幸せな人は、必ずしも今の自分が幸福だとは感じない。むしろ、自分に欠けているものだけに注意が向いて、焦燥感に苛まれていることも多いだろう。幸福というのは、おおむね「あのときは実は幸福だったのかもしれない」という形でしか感知できない過去の状態だろう。そうであるなら、人の「幸福度」を測定する作業はほとんど不可能に近い。「あなたは今幸せですか?」と問うてみたところで、本当に幸せな人は、今現在は不安、不満、焦燥感、無力感などに悩んでいる可能性が大きいのだから、どうやって幸福の実勢を把握することができようか。世論調査の類で幸福度を測るというのは、おそらく本当の幸福を味わったことがない人々が考えついた愚行に違いない。極論かも知れないが、XX国の幸福度が本当にわかるのは、その国が滅亡した後の元国民の回想においてではないだろうか。