経済危機の影響で文化事業が苦しい運営を強いられている中で、毎年多くの人々を動員し続けているのが世界最大級のクラシック音楽の祭典「ラ・フォル・ジュルネ」である。その成功の裏には、地元との連携を重視する姿勢と共に、一分野にとらわれず、文化的・社会的・教育的な側面を併せ持つ総合的イベントを目指したアプローチがある。
2014年1月11日、午前8時。フランス西部ナントの国際会議場に、前夜から詰め掛けた1,250人のクラシック音楽ファンが長蛇の列をなした。1月29日から2月2日まで同市で開催されたクラシック音楽の祭典「ラ・フォル・ジュルネ・ド・ナント」のコンサートチケットを手に入れるためである。2013年のチケット販売総数は14万5000枚。前年比では7,000枚の減少となったものの、コンサートの客席占有率は93%と高水準を維持した。
第20回という節目の年となる2014年は「峡谷から星に至るまで」と題し、19世紀半ばから今日に至るまでの米国音楽、そして米国を創作活動の場とした作曲家の音楽を270回にわたるコンサートを通じて特集した。大半のコンサートは国際会議場内の9会場を利用。演奏時間は1回45分間に限られ、会場によっては午前9時から午後10時までコンサートが目白押しで、大物から若手に至るまで1,800人にも上るアーティストが出演した。チケットの価格は、小学生向けコンサートでは5ユーロ、最高でも28ユーロと、クラシック音楽のコンサートとしてはかなり割安となっている。
1995年から開催されている「ラ・フォル・ジュルネ」の成長ぶりを公式ウェブサイト(http://www.follejournee.fr/fr/)に紹介されたデータから追ってみよう。
開催期間:当初は2日間だったが、2000年から3日間に、2003年から5日間に拡大された。
コンサート数:1995年は37。1999年に105、2003年に224、2013年には316に増加した(2014年は270)。
チケット販売数:1995年は1万8238枚。1999年は5万枚、2003年は10万枚をそれぞれ突破し、2012年には15万2000枚を売り上げた。
客席占有率:1995年は59.2%だったが、1996年以降は常に80%以上を維持。2008年以降は常に90%を超えている。
どの数字をとっても、大きな成功の様子がうかがえる。クラシック音楽のコンサートは全般的に動員に苦しんでおり、有名アーティストのコンサートですら空席が目立つことも珍しくない中で「ラ・フォル・ジュルネ」の成功は異例といえる。
「ラ・フォル・ジュルネ」は商標登録もされ、そのコンセプトは海外にも輸出された。2000年にはポルトガル・リスボン(2006年で終了)、2002年にはスペイン・ビルバオ、2010年からはポーランド・ワルシャワにおいても開催されている。しかし「ラ・フォル・ジュルネ」の輸出が最も成功を収めているのは何といっても日本で、2005年の東京を皮切りに、2008年には金沢市、2010年には滋賀県(琵琶湖)、そしてナントの姉妹都市である新潟市でも開催が始まった。これも成功の証しといえるだろう。
なぜ「ラ・フォル・ジュルネ」がこれほどの成功を収めたのだろうか。公式ウェブサイトはその理由を以下のように説明する。
理由1:従来のクラシック音楽コンサートのイメージとは違って、熱烈なファンだけでなく、クラシック音楽を知らない人にも門戸を開いた。
「ラ・フォル・ジュルネ」は、開催当初から「ちょっと敷居の高いクラシック音楽をみんなの手に届くものにする」ことを目標としてきた。多数のコンサートや各種のイベントにより、開催期間中、街は「ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)」の名の通りお祭りムードに包まれる。ポスターも独特で、まるで映画の予告ポスターを思わせるデザインとなっている。また、演奏会の時間を限り、チケット価格を抑えることで「クラシック音楽に興味はあるけれど、あまり長いのはちょっと…」という人々の好奇心を刺激することに成功した。さらに、厳密に選抜されたプログラムと高品質の音楽を提供し続けることで、従来のクラシック音楽ファンもつなぎ留めた(一部ファンからは「クラシック音楽の安売りだ」「アーティストがリハーサルを行う時間がなく、芸術的に見て疑問だ」との批判の声もあるが)。
理由2:地元との連携でフェスティバルを盛り上げてきた。
「ラ・フォル・ジュルネ」の開催に当たっては、ナントのホテル、レストランや商店などとも協力して宣伝・プロモーションを行うなど、地元を挙げて同フェスティバルを盛り上げている。「ラ・フォル・ジュルネ」は、ナント国際会議場のコンサートだけでは終わらない。例えば、期間中2日間にわたり、ナントがあるペイ・ド・ラロワール地域圏の11の自治体において、いわば「ラ・フォル・ジュルネの縮小版」が開催される。また、同フェスティバルは、音楽祭という側面を超えて、社会的・文化的・教育的な総合的イベントを目指しており、テーマに関連する演劇や講演会の他、ナントの病院、老人ホーム、刑務所での演奏会も開かれる。さらに「ラ・フォル・ジュルネ」の組織母体は、フェスティバルの期間外にもさまざまな事業を展開しており、刑務所などで音楽を中心とした取り組みを行う他、社会的弱者と共に「ラ・フォル・ジュルネ」の機関紙の編集を行い、社会復帰を助ける活動を行うなど、その多角的な試みは枚挙にいとまがない。
そもそも、どこからこのようなアイデアが生まれたのだろうか。ここで「ラ・フォル・ジュルネ」を創設以来率いてきた、ルネ・マルタン氏に注目してみよう。
マルタン氏は1950年、ナント近郊の生まれ。もともとは、クラシック音楽畑の出身ではない。少年期に好きだったのはむしろロック、ジャズ。クラシックに目覚めるはもっと後だが「音楽院にピアノを習いに行ったら大人向けのレッスンがなくて、代わりに」音楽史、記譜法、和声、電子音響音楽を学ぶ。大学では、経営管理学を学んだ。その後、1979年に地元ナントに芸術研究制作センター(CREA)を創設し、同市周辺におけるクラシック音楽コンサートの組織を行う。その手腕が注目され、間もなく各地でフェスティバルの創設に携わることとなる。以来、フランス南部ラ・ロック・ダンテロンの国際ピアノフェスティバル(1981年)、巨匠リヒテルを迎えたトゥールのグランジュドメレー・フェスティバル(1988年)など、数々の人気行事を手掛けてきた。また、ナント周辺での活動も活発に継続、ラ・ボール(1986年)、フォントブロー(1988年)などで小規模ながらも高品質なフェスティバルを創設してきた。
「ラ・フォル・ジュルネ」のアイデアが生まれたのは1992年、ナント国際会議場が完成したときにさかのぼる。当時のエロー市長(現フランス首相)から巨大な会場にふさわしい開場記念イベントのアイデアを求められたマルタン氏は「週末に開催する、ベートーベンの交響曲全曲を演奏する巨大コンサート」を提案した。その後も、国際会議場を利用した大掛かりなイベント開催について考えていた同氏が「ラ・フォル・ジュルネ」の具体的なアイデアを得たのは2年後、ロックバンド「U2」のナントにおけるライブを見たときだったという。「3万5000人もの若者がロックを立ちっぱなしで楽しんでいるのを見て、それならば、国際会議場でクラシック音楽の一大祭典を開いて、たくさんの人が会場内を順々に巡っていくような形もありじゃないか、と思ったのです」と語る。
マルタン氏はこうして自らが率いるCREAと共に「ラ・フォル・ジュルネ」のアイデアを構想、ナント市の協力を得て、開催にこぎ着けた。変化に富んだ経歴そのままに、クラシック音楽のみにとらわれず、さまざまな視点を交えつつ、地元ナントを軸に据えてこの大規模で型破りなイベントを構想してきた姿が浮かび上がる。
しかし「ラ・フォル・ジュルネ」の成功があるのも、経済的な裏付けがあってこそで、チケットの価格を抑えるという前提から考えても、補助金の存在は欠かせない。チケット販売が全体予算約400万ユーロの約45%を賄う一方で、ナント市が約25%を拠出している。同市は「文化の共有」をスローガンに積極的な文化促進政策を進めており、時に大胆な支出が批判の対象となるほどであるが「ラ・フォル・ジュルネ」はその政策に見事にマッチしたイベントといえる。
また、民間のメセナの存在も大きく、「ラ・フォル・ジュルネ」には公式パートナーであるBNPパリバ銀行をはじめ、同フェスティバルのパートナーとして石油大手トタル、ホテル大手アコー、コンサルティング大手デロイトトウシュ トーマツなどの名前が並ぶ。そして、こうした補助金やメセナを引き出すための条件として、フェスティバルの特に社会的・教育的側面や、地元への経済効果を強調することが必要となる。
フランス経済が苦しむ中、文化事業の運営も一段と苦しいものになっている。1月31日付のフランスのル・モンド紙の社説は「値上げしなければ、死ね」と題して、政府が美術館、オペラなどの文化施設や文化フェスティバルに対する補助金を削減、経営努力を勧告するのに対し、チケットの値上げで当座をしのごうとするケースが増加している状況に警鐘を鳴らした。こうした中で、多角的なアイデアを取り入れ続けて進化する「ラ・フォル・ジュルネ」は、文化事業が成功するための一つのモデルを提供しているといえるかもしれない。
(初出:MUFG BizBuddy 2014年2月)