イスラム教に対する冒涜行為と表現の自由

投稿日: カテゴリー: 日本関連

デンマークやスウェーデンで、コーランの焼却や破壊のようなイスラム教に対する冒涜行為を禁止する動きが政府レベルで進められているが、表現の自由を擁護する勢力からは反発や批判が寄せられている。両国政府の動機はおもに安全保障や外交にかかわるもので、イスラム・テロの再発を防止し、イスラム世界との関係の悪化を回避することが狙いだ。政策としては合理的だと思われるが、イスラム過激主義者の威嚇や脅迫に屈して表現の自由という基本的権利を放棄すれば、イスラム教の勝利を認めるようなもので、その影響がさらに強まってしまうという反対論も聞かれる。しかし、ちょっと考えてみると、コーランを焼いたり、預言者の戯画を新聞雑誌に掲載したところで、イスラム教の影響が弱まるわけではない。信者は反発するだけだ。また戯画を見て信仰を放棄しようと思うような信者は一人もいないだろう。例えば、学校教育の場において、イスラム教の教えと現代の科学的知識との間には大きな違いがあり、科学的知識は様々な厳密な検証を経て蓄積されてきたものであり、また、いくら現在は確実視されている理論や仮説や知識であっても、新たな反証やより整合性の大きい理論や仮説が提示されればいつでも変更可能な柔軟性も備えている点で、宗教より優れていることを教師がいくら熱心に生徒に説いても、それによって生徒に科学的知識を受け入れさせることができるとは限らない。イスラム教徒の生徒は、自分の宗教的信念を揺さぶろうとする試みに反発して、ますますその中に閉じこもるかもしれない。宗教の信者に対してはどんなデモンストレーション(冒涜的な示威行為でも科学的証明でも)も有効ではない。だとすれば、「表現の自由」なるものは、宗教への抵抗において何の実効性もない、幼稚な感情的吐露に過ぎない。そんなもののために市民の安全や命を犠牲にすることは無意味だと政府が考えるのは当然だ。もちろん根拠のない世界観や倫理を押し付ける宗教にすがろうとする人々がいつになってもいなくならないのは嘆かわしいことだが、これはもう諦めるしかない。根が腐った木でも、寄りかかることができれば安心感があるのだろう。