ノートルダム大聖堂と「一つ前」への愛着

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エラスムスの「対話集」の中にこんな一節がある。「パリの大聖堂にある聖クリストフォルスの石像、こいつは石像というよりは山みたいにでかいしろものだがね・・・」(「難破」の対話より)。間抜けな話だが、私はそんなものあっただろうかと思って、ノートルダム大聖堂の中を探し回ったことがある。「パリのノートルダム大聖堂にはいってすぐ右手にある・・・」という渡辺一夫先生の訳注も罪作りであったのだが、この石像は大革命に前後して破壊され、今はないということを後になって知った。なんでこんな話をしているかというと、例のノートルダム大聖堂の「改装」を巡る論争のことである。
ノートルダム大聖堂は火災を経て、現在復興のための工事が進められているが、パリ大司教区はこの機会に内装に手を加える方針を検討している。これに「知識人」や「識者」らが猛烈な反対の念を表明する声明文を連名で、7日付の保守系日刊紙ルフィガロ紙上などに発表した。パリ大司教区の計画は、壁面に大聖堂とカトリックの信仰に関する各国語の説明文を映し出すといった内容だが、反対派はこれに、800年の歴史の重みがある大聖堂をディズニーランドにでもするつもりか、と立腹している。
しかし、である。大聖堂はずっと同じだったわけではない。時代により大きく変遷を遂げている。エラスムスが目の当たりにして嘲笑ったクリストフォルスの石像だって歴史の一部であるのに今はなく、しかも、それは正当なことだが、誰もそれを残念がる人はなく、知っている人さえほとんどない。反対派が「元通りの復元」にこだわったあの尖塔にしても、19世紀にビオレルデュックが作らせたもので、「オリジナル」とは程遠い。あの尖塔を保存するために行われた工事がきっかけとなって、大聖堂の数少ない「オリジナル」部分だった屋根組みが焼失したのは、思えば皮肉な話である。反対派がこだわっているのは畢竟、歴史ではなく、「一つ前の姿」である。それはほかでもない、自分の記憶であり、自分自身への愛着であろう。そうと知った上で、要求を声高に主張するのは別段間違いではない。しかし、そこに「歴史」を持ち出すというのなら、クリストフォルスも黙っちゃないぜ。

europe1.fr 2021-12-08