開催前はフランス国民の不興を買っていたパリ2024オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、「パリ大会」)は、いざ始まってみると大盛況だった。「知」へのこだわりに比べてスポーツは二の次の感があるフランスだが、オリンピックやサッカー・ワールドカップになると目の色が変わる。2024年夏のパリ大会が、フランス社会にとってどのような意味があったのか考察する。
8.2秒。それは男性が恋に落ちるのにかかるといわれる時間だ。男性が初対面の相手を8.2秒以上見つめるということは、すでに恋心を抱いていることを意味すると、イギリスのある研究結果が示したという。一方、ベルギーの研究によると、人間の感情はそうそう長続きせず、怒りは2時間、感謝は5時間、喜びは35時間、悲しみは120時間でおさまっていくそうだ。では、スポーツ観戦の興奮はどのくらい持続するのだろう。
パリ2024オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、「パリ大会」)は大盛況で、フランスに住んでいるとそれがとても強く感じられた。人々は普段よりも朗らかで、国中に前向きな空気が満ち、くすぶっていたフランス社会が(ついに)頭を上げたと実感した。しかし、熱が冷めるのも早かった。次々と新たな情報が生まれる現代では仕方のないことかもしれない。パリ大会のお祭りムードは、おそらく閉幕後1週間と持たなかったように思う。2024年9月8日にパラリンピック閉会式が感動のうちに執り行われ、14日にシャンゼリゼ通りと凱旋門で、選手のパレードとレジオン・ドヌール勲章授与式が派手に開催されたが、数日たつと、もう誰もパリ大会の話をしなくなった。中東情勢、フランス新政権、米大統領選挙、夏季休暇後のせわしない日常などにとって代わられたようだ。
パリ大会を数値で振り返ってみる。フランス政府の発表によると、206カ国・地域からオリンピックに1万500人、パラリンピックに4,400人、計1万4900人のアスリートが参加した。観戦チケットは全部で1,200万枚売れ、うち950万枚がオリンピック、250万枚がパラリンピックのチケットだった。ファンゾーンなど競技場以外の観戦・祝賀特設会場には800万人が入場した。開催直前の推計では、パリ大会に訪れる観客・観光客数は1,600万人、うち190万人が外国人で、テレビ視聴者数は世界で40億人といわれた。大会期間中、安全確保のため多い日は1日に3万人の警官・憲兵、1万6500人の民間警備員が動員され、1万8000人の軍人も配備された。聖火リレーの走者は1万1200人で、沿道で応援した人は900万人だった。聖火は5月8日に南仏マルセイユに帆船で到着後、本土の半分を回り、海外県・海外領土へ運ばれて巡回し、再び本土に戻ってきて残りの半分を回り、パリでフィニッシュした。
さらに、パラリンピック期間中には、全国600以上の小学校・学童施設に応援拠点「ミニ・クラブ」が設置され、パラ・アスリートが訪れて児童と交流するなど、インクルーシブ教育(人間の多様性の尊重の強化などを目的とした障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み)が施された。設備、移動手段、食事などすべてに環境的な配慮がなされ、負の遺産となりかねない「ハコモノ建設」も極力避けられた。このため、大会後も残る常設施設は3カ所しか新設されず、そのうちの1つである選手村は、エコロジカルな一般住宅への転用が決まっている。ほかはグラン・パレのように特別に競技会場として使用された既存建造物や、大会後に解体撤去される仮設会場、スポーツ施設に乏しい自治体へ移されるプールといった移設用施設だった。
コスト面は、パリ2024組織委員会の開催関連支出が44億ユーロ(96%は民間資金)で、関連施設の建設を担当した国営企業SOLIDEOの予算も同じく45億ユーロ(公的資金と民間資金がほぼ半々)だった。ともに逸脱はなく、収支は極めて厳格に管理されたと報道されている。
国民が熱狂した要因の1つはフランス人の活躍だろう。フランスは、オリンピックではメダルを64個獲得し、うち金メダルは16個でメダル・ランキング5位につけた。パラリンピックではメダルを75個獲得し、うち金メダルは19個で8位につけた。フランス政府の掲げた目標は完全にクリアできた。さらに、4つの金メダルを獲得した水泳のレオン・マルシャン選手を筆頭に、柔道のテディ・リネール選手、ラグビーのアントワーヌ・デュポン選手、卓球のフェリックス・ルブラン選手、マウンテンバイクのポーリーヌ・フェラン=プレヴォ選手といったスター・アスリートに熱い視線が注がれた。
一般に、フランスの学校教育では、何よりもフランス語と数学の成績が重視され、スポーツは軽視されがちである。文武両道という考えは浸透していないようだ。サッカーやラグビーに通じ、語れることは、エリートにとっても必要とされているが、話題にするのと実践は別だ。それでもフランスは、パリ大会を通じて「スポーツ大国」になったと自負しているようだ。実際、オリンピック・パラリンピックに刺激を受け、柔道や卓球をはじめ、国内の各種スポーツクラブへの入会申し込みが殺到しているという。
パリ大会が始まる前のフランス人は、開催に後ろ向きで、治安の悪化や失敗を危惧する向きが多かった。ODOXAの世論調査によると、パリ大会の開催を支持するフランス国民の割合は2023年6月に58%、直前の2024年7月半ばも60%どまりだった。また、2024年3月には国民の92%が治安悪化を感じていると回答し、7月には68%がオリンピック開催中の治安が不安だと回答した。首都圏では「テロが起こりそうなパリ大会期間中」に留守にして、観光客に自宅を高値で貸そうという動きが広がった。ところが始まってみれば国をあげての大フィーバーで、大会後の世論調査では81%のフランス人が「パリ大会を開催して良かった」と回答し、77%が「分断していた国民がパリ大会のおかげで結束した」と回答した。
フランス政府やパリ2024組織委員会は、当初から「フランス人は山ほど文句をいうが、いざとなったら結束する。国の面子がかかっているのだから、ストライキも行わないだろう」と繰り返し語っていたが、その通りになった。「近代オリンピックの父」といわれるパリ生まれのピエール・ド・クーベルタン男爵もさぞ満足していることだろう。男爵が希求していたのはスポーツを通じた平和と協調だ。
思い起こせば筆者がパリに住んで以来、想像を超える大々的な民衆結束の動きが3つあった。1つ目は1998年7月のサッカー・FIFAワールドカップにおけるフランスの優勝時だ。アルジェリアのベルベル系カビール人の血を引き、マルセイユの移民が多く暮らす地区出身であるジネディーヌ・ジダン選手を中心に、さまざまな出自の選手が一丸となって優勝を勝ち取ったことにフランス中が熱狂した。老いも若きも盛り上がり、筆者のフランス人家族も失神せんばかりの興奮ぶりで、シャンゼリゼ通りで行われた優勝パレードは語り草になるほどのお祭り騒ぎだった。親近感の醸成がうまかったシラク元大統領もはしゃいで応援に参加し、「多様性の勝利」を強調したことで、国民の支持率が上がったといわれる。
2つ目は2015年1月に風刺新聞『シャルリー・エブド』本社がイスラム過激派テロリストに襲撃され、編集長や風刺漫画家ら12人が銃殺された時だ。フランス全土で「言論の自由を封じるテロ行為」に対する抗議の声が高まった。政党や出身国の違いにかかわらず、政治家も一般市民も体を寄せ合って大々的なデモ行進を行い、フランスでは稀な「静かなる連帯感」が人々の間に広がった。あのデモの光景は印象的だった。そして3つ目が今回のパリ大会である。
2015年のル・モンド紙の推計値によると、1998年のFIFAワールドカップ優勝時にはパリで150万人が集結し、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件を受けたデモには全国で400万人、うちパリで150万人が結集した。同紙はまた、こうした大規模な民衆の集まりとして1944年のパリ解放時(パリで100万人)、2002年5月の極右ジャン=マリー・ル・ペン氏が大統領決選投票に残った際の反対集会(全国150万人、うちパリで50万人)を挙げている。そうしてみると、今回のパリ大会は、オリンピック開会式でセーヌ川沿いに約36万人が集まったことからしても、超大型の大衆動員イベントの1つだったといえる。この成功に力を得て、フランス政府としては、2030年にフランス・アルプス地域で冬季オリンピックを開催し、再び国民を団結させたいところだろう。問題は、感動を引き起こすことができたとしても、それを持続させられるかどうかだ。
フランスの社会は厳しい競争社会であり、敗者に対して優しく手を差し伸べる雰囲気はあまりないといわれる。批判精神を持つこと、相手を論ばくすること、誰よりも優れていること、他者と自分との違いを際立たせることを常に求められ、同級生や同僚は、肩を組む仲間ではなく肘をぶつけ合うライバルとされる。伝統的な寛容の精神が社会に残っていながらも、おのおのが近しい人にすら心中を打ち明けられず、心理カウンセラーに相談する人が多い。こうした国において、「あの時はみんなで楽しかった」と素直に感じられる思い出は、それだけで救いであり、変革を生み出せる「魔法の種」なのかもしれない。エッフェル塔を背景に夜空に浮かぶあの気球型の聖火台も、そんな魔法の1つだったように思う。あの光は不思議と多くの人の心をつかんだ。毎晩、あの聖火台が日没と同時に地表から離れ、空中に浮かび上がる様を見ようと、大勢がチュイルリー公園周辺に集まった。多くの人が、離陸の瞬間を写そうと、そろって携帯電話を空にかざしていた。
筆者の知り合いの、ある多国籍企業に勤めるエリート・フランス人も聖火台を見に行ったという。そして、宙に浮かび上がるその瞬間に後ろを向き、みんなが夢中で写真を撮る様子をカメラに収めた。「こういう写真を撮ろうと考えついたのは自分だけだった」と「自分だけ」を強調しながら写真を見せてくれた。確かに面白いシーンだが、こんな時まで個性的であろうと意識せず、ただただ感動してはどうだろうかと思った。フォトグラファーやジャーナリストではないのだから、なおさらだ。彼は、よそ見ができないほど、より圧倒的なスペクタクルを目にする必要があるのではないだろうか。そう考えてみると、パリ大会とは、フランス人であることの数々の制約を忘れて「夢中になれる」、いや、「夢中になることを社会が許してくれる」、貴重なひと時を意味していたのかもしれない。
※本記事は、特定の国民性や文化などをステレオタイプに当てはめることを意図したものではありません。
(初出:MUFG BizBuddy 2024年10月)