フランスのカトリック教会で司祭による一連の性的暴行事件が新たに発覚し、波紋を投じている。フランスに限らずカトリック教会で性犯罪・性暴力が頻発していることは疑いの余地のない事態で、いまさら驚く気にもなれないが、こうも信者の信頼を失う行為が続くのでは、信仰離れを嘆く資格もないというべきだろう。カトリック教会の堕落ぶりは目に余るが、教会の長い歴史を辿り直せば、こうした堕落は初期から常にあった。筆者のようにもともと信者でない第三者から見れば、妻帯不可などの制度で、司祭に性的欲求の抑圧を強いるカトリック教会のシステム自体にそもそも無理があり、破綻は不可避の帰結と思われる。カトリック教会がそこまで性の抑圧にこだわるのは、イエスの教えというよりも聖パウロが導入した思想に起源があると言われるが、そこにひどく不自然で不健全な歪みが加わっていることは確かで、聖書から読み取れるイエスの教えがもっと寛大でのびのびとし、臨機応変で逆説も恐れない柔軟なものに感じられるのと対照的だ。それはともかく、性的欲求を抑えきれない司祭は無理に我慢しようと無駄な努力をするよりも、率直に自分の無力を認めて自分を許し(いや、神の許しを得て、かな)、さっさと転職すべきだろう。それがキリスト教の信頼維持に対する最大の貢献になるはずだ。無理は体にも心にも良くない。それが性犯罪・性暴力に繋がる要因だ。カトリックに限らず、性的欲求を適度に発散させる賢さを欠いているせいで過激に走りやすい宗教が多いのは実に困りものである。