オランド大統領の下、フランスの対アフリカ政策は新たな時代を明確に踏み出した。植民地独立後に続いてきた不透明な影響力行使の時代は終わり、グローバル化した世界の中で、アフリカ諸国自身による民主主義と和平の確立、開発を支援するべく、対等で透明性の高いパートナーシップの展開が打ち出されている。
2012年5月に選出されたフランスのオランド大統領は、同年10月に大統領就任後初のアフリカ訪問を実施し、訪問したセネガルの国民議会において、フランスの新たな対アフリカ政策について基調演説を行った。
この演説のさわりとされるのが「フランサフリカの時代は終わった。フランスがあり、アフリカがある。フランスとアフリカの間には尊重、透明性、連帯を基盤としたパートナーシップがある」というくだりだ。これを読んだだけでは「フランスとアフリカが別々にあるのは当然ではないか」といった疑問が出るかもしれないが、この演説の真意を理解する鍵となるのが「フランサフリカ(フランスとアフリカをつなげた造語)」という言葉だ。
「フランサフリカ」とは、アフリカの植民地諸国が独立した1950~1960年代以降、フランス政府が維持してきた、対アフリカ政策の本質を表した表現である。西アフリカの植民地諸国に続き、1962年にはアルジェリアも失ったフランスは、ドゴール大統領(当時)以降、必ずしも透明とはいえないさまざまな手段を使って、フランスに友好的な旧植民地指導者を保護しつつ、アフリカにおけるフランスの影響力を保持する政策を取った。
この背景にあったのが、ドゴール大統領による国家のエネルギー保障優先策(アルジェリアの独立によって石油資源を失ったフランスは、ガボンなどの産油国を押さえることを望んだ)と、東西冷戦構造である(アフリカへの共産主義浸透の歯止めとして、欧米諸国もフランスの影響力行使を容認した)。
一方、国内制度的にこれを支えたのは、ドゴール下で発足した第五共和政における「大統領専権事項」だ。外交権は大統領の専権事項と位置付けられ、特に対アフリカ政策は、大統領府に設置された「アフリカ班」が外務省を差し置いて独断でこれを遂行していくのが慣行となった。「ミスター・アフリカ」と呼ばれ1950年代から歴代大統領下でフランサフリカ政策を体現してきたのがジャック・フォカール氏で、1995年に就任したシラク大統領(当時)も、81歳のフォカール氏を大統領府のアフリカ顧問に任命した。フランサフリカ政策のツールの一つだったのが国営石油会社エルフだが、同社は2000年、現在のトタルに吸収されている。
この連綿たるフランサフリカの伝統に最初に風穴を開けたのが、1990年のミッテラン大統領(当時)による演説だった。ミッテラン大統領は、フランスのラボールで開かれたフランス・アフリカ首脳会議の席上、初めて、民主主義、公正、人権擁護をフランスによる開発協力の条件とする方向性を打ち出し、独裁政治には目をつぶってアフリカ諸国の指導者を後押ししてきたフランスによるアフリカ政策の風向きが変わり始める。
初の社会党大統領だったミッテラン大統領は、1980年代を通してフランサフリカ政策をそのまま継承していたが、その風向きを変えさせたのは1989年11月のベルリンの壁崩壊と東西冷戦の終結という世界情勢の大きな変化だった。当時のデュマ外相は、この演説の趣旨を「東に吹いた自由の風は、必然的にいつか南へ向かって吹く。民主主義なくして開発はなく、開発なくして民主主義はない」と見事に要約した。
その後、フランスの対アフリカ政策に再び大きな軌道修正をもたらすことになるのは、冷戦終焉(しゅうえん)後の世界の多極化、グローバル化である。
グローバル化のうねりに乗った新たな方向性を明確に表明したのは、2008年8月、サルコジ前大統領が南アフリカ共和国のケープタウンで行った演説である。サルコジ前大統領はこの演説において、ラボールにおけるミッテラン大統領の演説を通じて求められた民主主義や人権尊重はすでにアフリカ諸国自らの価値となりつつあるとし、フランスのアフリカ政策の目的はアフリカ連合(AU)に体現される「アフリカの統一性」とその再生に他ならないと述べ「共通の価値の実現を目的とする欧州とアフリカ間の戦略的パートナーシップ構築」を訴えた。
このビジョンの中にはもはや、旧宗主国であるフランスと旧植民地各国の間の不透明で従属的、排他的な二国間関係はない。開発援助に関しては世界銀行や国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)、フランコフォニー国際機関といった多国間組織へのシフト、民間セクター発展支援の重視が打ち出され、旧植民地である各国も、地域組織、そしてAUという広域組織の中に取り込まれていくだろう。
同時に、フランスが各国との間で結んできた防衛合意についても、全合意を見直し、従来の秘密条項を廃止して、議会による討議を導入することが約束された。サルコジ前大統領は「フランスは無期限にアフリカに兵力を維持する使命はない」と述べ、フランス軍の配備は、AUが計画するアフリカ多国籍軍形成を支援するための過渡期的なものであることを確認した。1960年代には3万人を数えたフランスの駐アフリカ兵力は2011年には1万人を割り、臨時派兵や多国籍軍内の兵力を除く常駐軍の規模は5,400人にまで縮小している。
そして2012年、オランド大統領は「フランサフリカの終焉」「フランスの大統領府や省庁の扉は特使や仲介人に対して閉ざされた」と宣言した。同年12月にキンシャサで開始された第20回フランス・アフリカ首脳会議では、民主的な政権交替や人権が無視されたままのコンゴ共和国、カメルーン、チャド、ガボン、コンゴ民主共和国らの元首は極めて冷ややかな待遇を受けたという。オランド大統領の登場は、フランサフリカ時代への「とどめの一撃」と評されている。
ところが、その3カ月後の2013年1月11日、オランド大統領が統制権を有するフランス軍は、マリの領土の半分以上を占領して首都バマコへ南下する動きを見せ始めたイスラム原理主義武装勢力に対する爆撃を開始した。現在も、西アフリカ15カ国がつくる西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の多国籍軍の展開を待ちつつ、少なくとも2,000人を超える兵力を陸上に投入し、北部へ追いやられた武装勢力と対峙(たいじ)する状態が続いている。
しかしこの軍事介入は、過去においてチャド、中央アフリカ、コートジボワールなどでフランスが行った軍事介入とは、基本的な性格が異なる。まず、一国内の政権争いのいずれかに加担する介入ではなく、国外から侵入して国家の統一性を脅かし、将来的に地域の安全保障にとって大きな脅威となり得るテロ勢力を標的としている。また、国連安全保障理事会、AU、ECOWASといった国際・地域機関とも密接に連携している。西アフリカには旧フランス植民地国が多いが、最初にフランスの介入を要請したのは、英語圏のナイジェリアだった。
実際には、資金も装備も組織力も資金も不十分なECOWAS軍の展開は難航しており、フランス軍からECOWAS軍への引き継ぎは容易ではないだろう。しかし、原則はすでに明瞭である。オランド大統領は冒頭に述べたセネガルでの演説において「アフリカの将来は、アフリカ自身が、アフリカにおける危機を管理できる能力を強化することによって構築される」とも述べた。
フランスは2008年の防衛白書においてすでに、大西洋岸からソマリアに至るサヘル地域の無法地帯化に警告を発し、同地域の安定は欧州の安全保障にとっても重要であり「長期的な監視と投資を必要とする」と指摘していた。
軍事介入後に必要となるのは政府開発援助(ODA)だ。開発と民主化・政情安定の間に因果関係があることは周知の事実である。
オランド政権におけるODAの基本方針が提示されるのは、2012年12月に国内の関係者を集めて開催された開発・国際連帯会議の結論が出る2013年3月以降になるだろう。経済危機下でのかじ取りは決して容易ではない。
ODAに関する国際目標は、2015年の国民総所得(GNI)の0.7%達成である。2010年現在、フランスの同率は国際平均の0.32%より高いとはいえども0.46%である。しかも、債務帳消しが組み込まれたことで比率が上昇した。フランスのODA額は2010年に米国、英国、ドイツに次ぐ世界4位(日本は5位)。その60%が二国間援助であり、二国間援助の54%がアフリカ向け、45%(26億ドル)がサハラ砂漠以南のアフリカ諸国向けである。
アフリカの未来の構築へ向けてフランスが担う役割は、依然大きい。
(初出:MUFG BizBuddy 2013年3月)