オートクチュール文化に見るフランス

投稿日: カテゴリー: フランス社会事情

明治維新によって日本に西洋的近代国家が誕生した1868年、フランスが誇る文化遺産「オートクチュール」がパリに登場した。20世紀には偉大な「クチュリエ」が輩出され、現代のフレンチモードが幕を開けた。モードは常に近代フランスの基盤産業の一つであり、アイデンティティーであった。ハイファッションへの需要が減少している昨今、フランスはファッション大国としての威信を懸けて同産業を支援している。

フランス国立統計経済研究所の統計によると、フランス産業界の13社に1社はモード関連企業1であり、ファッション業界では13万人が雇用されている。売り上げは3,400億ユーロで、フランス製造業全体の5%を占める2。繊維産業に限ると、2010年時点で7万人が従業し、売り上げは1,200億ユーロであった。輸出額も増加しており、この傾向が今後も続くことが期待されている。

ここで、フランスにおけるモードの歴史を簡単に振り返ってみたい。華々しいパリのモードの歴史は絶対王政時代に始まる。このころ、最もファッショナブルであった歴史上の人物といえば、あのマリー・アントワネット(1755~1793年)だろう。アントワネットの洋装がもたらした影響は大変大きなものであったが、その影の立役者がローズ・ベルタン(1747~1813年)である。一介の帽子商人だったベルタンは 、王妃にそのセンスを認められ絶大な信頼を得て、後に「マリー・アントワネットのモード大臣」と呼ばれた。ベルタンはフランス最初のクチュリエ3といえるだろう。ベルタンのデザインする斬新なドレスや宝石はヨーロッパの上流階級の女性たちの間で大流行し、アントワネットはファッション・アイコンとなった。

19世紀に入ると、フランスのモードは産業的に進んでいた英国の影響を多く受けることとなる。それまでのフランスでは手仕事による仕立て服が主流であったが、産業革命以降は機械を使った量産にシフトし、コンフェクション4産業が興隆する。ここで宮廷文化に端を発するファッショントレンドがぐっと大衆化したわけだ。

一方で、英国からやってきたデザイナー、シャルル=フレデリック・ウォルト(1825~1895年)が伝統的な手仕事による高級仕立て服店の価値を高めることを目標に、乱立していた多くのメゾンを組織化5し、フランスが誇る文化遺産であるモードの最高峰オートクチュール6が誕生する。量産によりファッションが庶民化する横で、同じく宮廷文化に端を発する高級仕立て服の職人技は、こうして少数精鋭のメゾンに受け継がれることになる。その後、ウォルトによるフランス製オートクチュール作品は19世紀後半に開催されたロンドンとパリ万博で展示され、世界中に知れ渡った。また、プレタポルテ7は、アルベール・ランプレールが1945年に米国の高級婦人既製服の生産方法をフランスに持ち込んだのをきっかけに始まり、工業化の発展とともに広まった。

ところで、フランスモード産業を語る上で、ポール・ポワレ(1879~1944年)の偉業に触れないわけにはいかない。ポワレはウォルトのオートクチュールメゾンから独立して自身のメゾン「ポール・ポワレ」を1903年に設立。1906年に発表した最初のコレクションでは、それまで女性の体を締め付けていたコルセットを排除し、動きやすさを追求したキュロットスカートなどを世界に広め、ファッションの歴史を塗り替えた。ビジネス感覚にも優れたポワレは、香水、アクセサリー、インテリア、舞台衣装といったさまざまな分野でも才能を発揮し、今日のトータルファッションを早期に提案したパイオニアとしてモード界の頂点に君臨した。ポワレもまたモードの近代化と民主化に尽力し、現在のモード産業の基盤をつくり上げた革命家である。

1929年の世界恐慌による産業の停滞、2度にわたる大戦で存亡の危機に見舞われたフランスのモード界だが、政府や業界団体による積極的な努力により、歴史が途絶えることはなかった。このころにはガブリエル・シャネル(1883~1971年)を筆頭に、クリスチャン・ディオール(1905~1957年)、ピエール・バルマン(1914~1982年)、ユベール・ド・ジバンシィ(1927~)、イブ・サン=ローラン(1936~2008年)など20世紀を代表する偉大なクチュリエが輩出され、オートクチュールはフランスが世界に誇る文化遺産となった。

しかし、1960年代以降に盛んにプレタポルテ・コレクションが発表され、その波に押されるように、莫大(ばくだい)な資金を必要とするオートクチュール・ビジネスは縮小していった。顧客数が極端に減少8し、慢性的な赤字に陥った多くのメゾンは衰退。プレタポルテ事業や香水、アクセサリー部門に採算性を求めざるを得ない状況が続いていたが、オートクチュールの後退を背景として、薄れてしまった伝統産業の価値を見直そうとする動きが現れた。特にオイルショック後に、深刻な不況と失業問題も重なってこの傾向が顕著になった。

1976年にフランス政府が打ち出した一連の「伝統工芸産業振興策」は、オートクチュールをはじめとするフランスの伝統芸術の振興を図ろうとした政策であり、伝統産業技術の継承、技術者の養成や輸出拡張を目指すものであった。その後もフランス政府は、継続的にファッション産業の支援を行ってきた。以下に、過去数年のフランス政府によるモード産業振興政策の幾つかを挙げてみたい。

まず2010年、エストロジ産業担当相(当時)が音頭を取り、政府と業界団体との間で紳士協定「ベストプラクティス憲章」が取り交わされた。他の産業の例に漏れず、高級ブランドも海外への生産移管を進める中、ファッション下請け産業の存続と雇用維持を目的として締結された。この中には、下請け業者への支払い日数の短縮化、契約解約の予告期間の設定などが盛り込まれたが、最低発注額の保証は外された。下請け側にとってこれは必ずしも満足のいく内容ではなかったが、対話促進において多くの効果があったとされている。

1999年に民間投資銀行ナティクシスにより設置された「モードとファイナンス」投資基金は、2011年に新設されたフランス公共投資銀行(BPI)に引き継がれ、その際に、少なくとも2023年まで継続的に将来性のある新鋭ブランドを支援することが決められた。この基金は、売上高が50万ユーロ以上のファション関連中小企業に40万~150万ユーロを出資するベンチャーキャピタルである。これまでもニコラ アンドレア タラリス、アンヌ・バレリー・アッシュなどが「モードとファイナンス」からの出資を受けた。

ミッテラン文化相(当時)は2011年に、ルイ・ヴィトン、バレンシアガ、シャネルの協力の下、若手デザイナーを支援する融資基金を設置した。いまや引く手あまたとなったカリスマクリエーター、オランピア・ル・タンはこの基金の恩恵を受けた最初のクリエーターである。この基金は、公的機関である映画・文化産業助成研究所(IFCIC)が運営しており、設立2~10年の企業に対して10万ユーロ以内の融資を行っている。基金設置から1年間で8人が総額70万ユーロの融資を受けた(2012年12月末時点)。また、銀行融資の際の信用保証などを行い、若いクリエーターの資金繰りを支援している。

時期が前後するが、若手クリエーターの支援策として、2003年にFFPAPF9とパリ市のパートナーシップ「ヤングクリエーション」が発足している。独自ブランドを立ち上げたい若手クリエーターを対象に、資金調達やブランド立ち上げ時の行政手続きのアドバイス、ファッション見本市の参加援助、弁護士や会計士などの専門家紹介サービスなどを行う。

一代で巨大なブランド帝国をつくり上げた、LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトングループのベルナール・アルノー会長は、多くの高級官僚を輩出する理工系の名門校エコール・ポリテクニーク出身である。父親の経営する建設会社でエンジニアとしてキャリアをスタートさせた。その後、1970年代に仕事で訪れたニューヨークでの出来事が彼の人生を変える。それは「フランスの大統領の名前は知らないが、ディオールなら知っている」というタクシードライバーの一言だ。死後20年が経っていたにもかかわらず、ディオールの名が時空を超えて不滅の名声を得ていることに大きな衝撃を受けたのだ。そのときに彼は、フランスの伝統的高級メゾンは世界中を魅了する潜在力があると直感したという。

アルノー会長の見立て通り、フランスのファッション産業は彼に巨万の富を与えた。経済危機の中でもフランスのブランドは軒並み安定した業績を誇っており、ファッションは今でもフランスの基盤産業の一つであり続けている。とはいえ、世界的にファストファッションが隆盛し、ハイファッションの需要が減少していることも確かな事実としてある。今後、フランスがハイファッション大国としての地位をいかに保っていくか、というのは同産業にとって、ひいてはファッションを文化遺産とするフランス社会にとって大きな課題であるように思われる。

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1 ここで言うモード産業の定義には、衣類、かばん、靴、宝石などが含まれる。
2 食品加工とエネルギー産業を除く。
3 クチュリエ(couturier)とは、高級仕立て服のデザイナーである。
4 コンフェクション(confection)とは、低価格で大量に生産される既成服である。
5 オートクチュール(haute couture)とは、フランス語で「高級な(haute)」と「仕立て、縫製(couture)」の単語の組み合わせで、オーダーメードされる高級仕立て服を指す。1868年にオートクチュール組合(Chambre syndicale de la haute couture)が設立された、現在は1973年に新設されたFédération Française de la Couture du Prêt-à-Porter des Couturiers et des Créateurs de Modeによって、オートクチュール、プレタポルテ、メンズファションの三つの業界組合で構成される連盟になっている。
6 オートクチュールという呼称使用は1945年の政令により法的に保護されており、パリクチュール組合(Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)に所属を許されたメゾンのみ使用できる。
7 プレタポルテ(prêt-à-porter)とは、フランス語で「準備ができている(prêt)」と「着る(porter)」を合わせた造語である。すぐに着用できる服=既製服という意味であるが、今日ではコンフェクションの対語=高級既製服を意味する。
8 20世紀前半のオートクチュールの顧客は10万人であったが、現在は数百人程に減少している。
9 Fédération Française du Prêt à Porter Féminin/フランスレディースプレタポルテ連盟。

(初出:MUFG BizBuddy 2013年11月)