ドクメンタで物議を醸したインドネシアのアーティスト集団「タリング・パディ」の「People’s Justice」という2002年制作の作品について、インドネシアの社会・文化・歴史に詳しいドイツの美術専門家らは、インドネシアの現代アートがスハルト時代の弾圧や抑圧との闘いや、それが残したトラウマからの回復という同国に特殊な文脈において発展してきたものであり、第二次世界大戦とホロコーストという「表現不可能な」歴史的事件に向き合うことを強いられてきた西欧のアートとはそもそも問題意識が完全に異なっていることを指摘し、「People’s Justice」の中に反ユダヤ主義的と受け止められても仕方のないモチーフが混在していることにインドネシアのアーティストたちが気づかないままだったのではないかとの見方を示している。いくらアジアから見て、西欧の歴史が他人事と感じられたとしても、ドイツで開催される美術展に出展する際に、反ユダヤ主義というセンシティブな問題に注意が向かないほどナイーブかつ無批判的であることが、現代のアーティストに許されるのかどうかは大いに疑問だが、そもそもドクメンタが今回初めて芸術監督をアジアから選出した狙いの一つは、西欧的な文脈や問題意識にとらわれない新鮮で多様なアートのあり方を紹介することだろうから、その目的は予想以上に大胆な形で成就されたとも言えるだろう。欧州の社会において、ダイバーシティの名の下に、従来の西欧的な倫理や価値観にそぐわない考え方や行動(イスラム教徒による反ユダヤ主義もその一部)が容認されつつある中で、こうした事件が起きることは必然的な流れだとも言える。ダイバーシティ自体は西欧が生み出した新たな価値観かも知れないが、その推進が自己言及的に西欧の歴史的価値観の基盤を掘り崩す自滅的行為となることは不可避であり、いちいち驚いたり、憤慨するのは自己矛盾というものだろう。西欧はパンドラの箱をすでに開けてしまったのだから。