パリ同時多発テロとフランス社会への影響

投稿日: カテゴリー: フランス社会事情

2015年11月13日に発生したパリ同時多発テロがフランス社会に与えたインパクトは、非常に大きなものであり、今後もさまざまな形で影響を与え続けることになると見られる。それがどのようなものとなるか、同年1月7日に発生した一連のテロとの対比などを通じて考察する。

2015年1月7日に発生したフランスの風刺的週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃に続く一連のテロ事件に続いて、同年11月13日に発生したパリ同時多発テロ事件は、記憶に新しいことだろう。本稿では、今回の事件のフランス社会への影響について、考察してみたい。

二つの事件の相違
まず、最初に指摘しておきたいのは「シャルリー・エブド」事件と、今回の事件との間では、本質的な違いが見られることである。「シャルリー・エブド」事件もテロであることに変わりはないが、同事件では「シャルリー・エブド」紙がイスラム教の預言者ムハンマドを題材とした風刺画を度々掲載し、イスラム教徒からの反発を招いていたことが根底にある。同紙に対する攻撃については、イスラム教徒の中から「自業自得」という反応が見られただけでなく、同紙の風刺を表現の自由の行き過ぎだと見る人々からは、テロという暴力行為を批判しつつも、同紙がテロのターゲットとなったことは理解できないことはないとの見方も出された。そこから、表現の自由の限界という議論が起き、さらには「民主主義そのものを否定する言説をどこまで許容するのか」という西洋民主主義の根本問題に対する問いかけも生じた。

これに対し、今回の事件で犠牲となった人々のほとんどは一般市民である。最も多くの死傷者が出たパリのバタクラン劇場(死者89名、負傷者多数)は、ユダヤ人兄弟が2カ月前までオーナーであったことから、以前より親イスラエル的なイベントが頻繁に開催されており、反ユダヤ主義者からの攻撃対象になっていたが、今回犠牲者となった人々が反ユダヤ主義者であったというわけではなく、イスラム教徒もかなりいた。襲撃の対象となったその他の場所は、サッカーのドイツ代表対フランス代表の親善試合が行われていたスタッド・ド・フランス(国立競技場)付近、あるいはカフェやレストランであり、典型的な不特定多数の市民を狙ったテロと言ってよい。

以上のような違いから、前回のテロ後に学校内で広がった、イスラム教徒の生徒からの「イスラム教のイメージを悪化させるための陰謀説」の出現は、今回の事件後にはほとんどなかった。「シャルリー・エブド」事件では、テロ実行犯を「聖戦」のために命を落とした「殉教者」と評価するイスラム教徒もいたとみられるが、今回はテロ犯たちを「殉教者」と見なす人々は、おそらくフランス国内ではかなり少ないのではないかと思われる。今回のテロ以前には、フランス国内からイスラム過激派への追従者が増えていることが問題視されていたが、事件後にはこういう事態に逆にブレーキがかかったのではないかという考えも否定できない。

テロが引き起こしたさらなる問題
今回のテロが不特定多数の市民を狙ったものだったことは、他の問題も引き起こす。わけも分からず、いつどこでテロに遭遇するか分からない、という恐怖感がまん延する可能性があるということだ。このような恐怖感は非常に厄介なもので、いくら治安を強化してみたところで完全に消え去ることはなく、社会活動にとって大きな妨げになる。とりわけ、フランス国内初の自爆テロであることが気掛かりな点である。自らが死ぬことを覚悟で誰かが攻撃を仕掛けてくる場合、それを防ぐことは非常に困難だ。

こういったテロの場合、武器の調達にはプロが必要になるが、実行犯はプロでなくてもいい。ごく普通の若者でも「殉教者」として神に選ばれたものだと思い込ませれば十分である。ただし、そのような「殉教者」をつくりだすには、時間と大掛かりな組織が必要だろう。単に世の中に不満を持つ若者たちが起こした単発的な事件ではない。7人もの自爆者が出た今回のテロでは、フランスおよびベルギーに大掛かりな組織がある可能性が大きい。ISIL(いわゆるイスラム国)から送り込まれた8人のテロリストだけで起こした事件なのではなく、むしろ、現地に根を張った組織があると見た方がいい。そうなると市民の心中では、いずれか再び似たような事件が発生する可能性も大きい、という警戒心が強くなる。

経済活動への影響に関しては、マクロ経済への影響はほとんどないとの見方1も有力だが、フランス国内レベルでは、飲食店や観光業界などに影響が確実に及んでいる。また、テロリストの多くが欧州内を行き来していたことが判明し、一時的に国境での入国検査が復活している。欧州への大量の難民流入への反動から、他の諸国も相次いで国境検査を復活させており、欧州内での人と物の移動の自由を定めたシェンゲン協定が事実上破棄されるのではとの懸念も高まっている。その場合、フランス首相府下の調査機関フランス・ストラテジーによると、2025年時点でシェンゲン協定加盟国全体において1,000億ユーロの影響が出ると試算されている。また、フランスに限ると、影響は130億ユーロに上り、国内総生産(GDP)の0.5%に相当する2。

フランスの世俗主義と宗教
テロの社会に対する長期的な影響としては、フランスの国是とされている世俗主義とイスラム教、ひいてはイスラム原理主義との関係が、かつてないほど重大なものとなると見られる。フランスにおいては、共和制の発端となったフランス革命以来、キリスト教からの国家の分離が非常に大きな意味を持っており、日本より世俗主義が厳格だ。日本の場合の世俗主義は「政教分離」が主であるが、フランスにおいては「政教分離」だけでなく、公的空間における「宗教色排除」も強く打ち出されていることが特色である。

ただし、そうは言っても、フランスの世俗主義が、キリスト教に対して甘いという印象は拭えない。例えば、1996年に亡くなったミッテラン元大統領の国葬は、元大統領がカトリック教徒ではなかったにもかかわらず、パリのノートルダム大聖堂で営まれ、諸外国要人の参列する中、テレビ中継もされた。また、国の祝日のほとんどがキリスト教起源のものだ。これらのことから見て、フランスでの世俗主義は、客観的に見ると、キリスト教的なものであるとさえ言えるかもしれない。また、絶対的なものではなく、キリスト教に対しては、相対的なものでもある。

これに対しイスラム教では、国により政教の考え方も違いがあり、世俗主義を国是とする政権が成立している国々もあるとはいえ、突き詰めると「政教一致」が原則であり、かつ、日常の生活においても、イスラム教の教え(イスラム教の聖典コーランおよび預言者ムハンマドの言行)に従うことが必要とされている。サウジアラビアなど一部諸国では、イスラム教の教えを源とするシャリーア(イスラム法)が憲法でもある。

挑発と反動の連鎖
このような宗教の下に置かれているイスラム教徒が、移民として、フランス流の世俗主義の中で生きねばならない時、一部で、信教の自由を侵害されているという感情を抱く人たちが出ることは不可避と思われる。このような感情は、疎外されているという意識と結びつくと急進的なものとなりやすく、いわゆるイスラム過激派勢力につながりやすい。一方、フランスの世俗主義の側からは、特に、イスラム教において、宗教が日常生活を律するという面が問題となる。われわれの一生で、過ごす時間が最も長い公共スペースは学校か職場であろうが、イスラム教と世俗主義との間の対立が最も先鋭的に表れるのが、より公的な性質を帯びる「学校」であるのは当然の成り行きである。そこから、イスラム教徒の生徒によるイスラムスカーフ着用が論議の対象となり、2011年には法により禁止されるに至った。

イスラムスカーフに関しては、コーランには明確な規定はなく、イスラム教徒の側からは、中東の強い日差しを避けるための最も簡便な方法だった、あるいは、女性たちを男性たちの好奇の視線から守るためのものという説明もなされている。つまり、イスラムスカーフは宗教的なものではなく、文化的なものだという主張だ。しかし問題はむしろ、この説明が真実だったとしても、イスラムスカーフが、コーランには明確な規定がないにもかかわらず、イスラム原理主義者たちからイスラム教徒女性のシンボルとして見なされていることだ。そうなると、学校におけるスカーフ着用は、単なる文化上の問題とは言い難い。イスラム原理主義側からのフランス流世俗主義に対する挑発としての様相を帯びてくるからだ。

現在のフランスでの世俗主義が、政教分離よりも、むしろ公共の空間における宗教色の排除を主としたものであるように感じられるのは、ある程度まではこのような挑発に対する反動という面は否定できない。逆に、イスラム教徒から見ると、フランスでの世俗主義の硬化がイスラム教徒の信教の自由を侵し、イスラム過激派勢力を刺激していると主張も可能だろう。どちらの側も、もう一方からの挑発への反動だと主張することができる状況にあるため、問題の根は深い。今回のテロにより、フランスでの世俗主義はさらなる硬化に向かう可能性が大きく、その矛先が向くイスラム教徒の間では、偏見的に扱われているという感情と結び付き、急進化していく可能性は捨てられない。

つけにくい世俗主義との折り合い
ところで、フランスでの世俗主義が、キリスト教との対立の中で生まれてきたにもかかわらず、キリスト教的なものであるという実態の背景には、上に述べたように、世俗主義がキリスト教に甘いという事実だけでなく、キリスト教には「信じるものは救われる」という内面性を重んじる面があり、これは、神を信じることが重要で、その他の戒律順守などは二次的なものだという考え方につながる。

対して世俗主義は、信教の自由は認めるという立場であり、内面を問題としない。世俗主義により、学校での十字架着用が禁止されても、キリスト教徒は、キリスト教徒であることに変わりはないのだ。この点からみて、キリスト教徒は、世俗主義との折り合いがつけやすいということができる。一方、イスラム教の場合は、戒律順守がイスラム教徒であることの要件となっている。コーランや預言者ムハンマドの言行に背けば、イスラム教徒であることは難しい。この観点から見ても、フランスの世俗主義とイスラム教徒の間の関係が、今後も険しいものとなるとの見方は有力だ。

二重国籍者に対する視線
現在、フランスでは、テロ行為を行った者からの国籍剥奪を可能とする条項を憲法に明記しようという改憲案が国会で審議中である。既に下院では、賛成317票、反対199票で可決された。近く上院でも審議が始まる。しかし、両院合同会議で5分の3以上の賛成がなければ成立しないことから、改憲の先行きは危うい状況になっている。この改憲案は、パリ同時多発テロ実行犯に二重国籍者がいたことを念頭に置いたもので、当初は、テロで実刑判決を受けた二重国籍者から国籍を剥奪するという内容だったが、二重国籍者に対象を限定することは法の下での平等の原則に反するなどの異論が出て、二重国籍者という文言が削除された。しかし、その場合、無国籍者を出す可能性もある。また、自爆テロを企てる者に対し、国籍剥奪という刑罰が抑止力になるとは思えず、象徴的なものでしかないという批判も聞かれる。

フランスでは二重国籍者は移民に多い。従って、二重国籍者に対してだけ国籍剥奪の可能性を憲法に明記しようということは、それらの人々、つまり移民を不当に扱うことに近い。そもそもこのような案が出されることが、多くの人々の二重国籍者に対する視線を示しているようにも思われる。

ふと、頭にある事件が浮かぶ。1938年に起きた津山事件だ。横溝正史の「八つ墓村」にインスピレーションを与えた大量殺人事件として知られている。もちろん、今回の同時多発テロと津山事件とでは、時代背景が違う上、後者には宗教が絡んでいない。ただ、後者の犯人の動機が、結核を理由に徴兵検査で丙種合格(入営不適、実質上の不合格)となったことによる周囲からの偏見を苦にしたことであった点が気に掛かった。

偏見や排除行為は、時に事件を引き起こす。フランスでも再びテロにつながらねばよいがと思う次第である。

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1 http://www.newsweekjapan.jp/kaya/2015/11/post-5.php など
2 出典:Les Echos 2016年2月4日 p.7

(初出:MUFG BizBuddy 2016年2月)