もう数年前のことになるが、ある仏外交官が、日仏関係について「最近の日仏関係にはまったくirritantがない」とコメントしていた。
「irritant」という単語を聞いてはて、と思った。「irriter(いらいらさせる、ひりひりさせる、感覚を刺激する)」という動詞から来ているのは明らかなので、おそらく「いらいらさせるようなことがない」、つまるところ「問題がない」、と言いたいのだろう、というのは想像がついたが、私は「irritant」という単語を形容詞としてしか聞いたことがなかった。つまり、「une question irritante」(頭にくる質問)とか「aliments irritants pour les intestins(腸を刺激する食べ物)」といった具合である。一方、「まったくirritantがない」というと明らかにこれは名詞である。出版社を経営している仏人の友人に聞いて見たところ、「そんな名詞はフランス語には存在しない」と(大変フランス人らしく)断言した。手元の辞書を見ても、形容詞のみが掲載されており、名詞は見当たらなかった。
さてその後、色々な新聞記事を読んでいるうちに、何度かこうした名詞の「irritant」に出会う機会があった。調べてみたところ、マーケティングやコンサルティングの業界で用いられる言葉であるらしく、英語で、クライアントがどんなにコストをかけても解決したいと思うことを「pain point」とか「irritant」といい、それがそのままフランス語に入ってきたのだ、という。「ant」という語尾はフランス語で現在分詞を示すものなので、恐らくフランス語の単語が中世に英語に採用されて、独自の進化を遂げて名詞になり、それが現代になって逆輸入されたということになろうか。
あるフォーラムを見ていたところ、こんなメッセージを投稿している人がいた。
「irritantは、フランスの組織コンサルティングやマーケティングの業界用語で、「problème」という言葉を避け、事態の深刻さを軽減するための流行語だ。ついでに、この言葉を使うと専門家っぽい雰囲気が生まれる。5年後には、この言葉は消え去り、別の曖昧な概念に取って代わられるであろう」。
ピュアなフランス語を使おうとする努力で知られるカナダ・ケベック州のフランス語についての説明ページ(https://vitrinelinguistique.oqlf.gouv.qc.ca/23595/les-emprunts-a-langlais/emprunts-semantiques/emploi-deconseille-de-lemprunt-irritant)は、irritantという名詞について、英語からの借用であり、科学的用語としてならともかく、「心理的な面で不快感を与えるものや側面について話す際には、この言葉を使うのは避けるべきである」とアドバイスしている。
当然ながら、フランス語も進化している。果たして5年後は如何なる言葉が流行するのであろうか。