バレリー・ジスカールデスタン元大統領が2日に死去した。94才だった。
元大統領は9月以来、体調を崩して入退院を繰り返し、11月半ばにはトゥール市の病院に入院した。新型コロナウイルスにも感染し、高齢もあって回復に至らなかった。
元大統領は1926年に独コブレンツ市で生まれた。第1次大戦後にフランスの統治が続いていた地域で生まれた。元大統領は戦後、理工科学校(ポリテクニーク)からENA(国立行政学院)に進み、財務省監察総局に入るというエリートコースを進み、1956年にはオーベルニュ地方から下院議員に初当選。1959年にドゴール政権下で財務閣外相として入閣。1969年から1974年までポンピドー政権で財務相を務めた。ポンピドー大統領の死去に伴い、1974年に行われた大統領選挙で当選。ドゴールからポンピドーと続いた右派政権の下で頭角を現し、中間層を糾合して支持基盤を作り、右派を切り崩して勝利するという新たな道を切り開いた。48才という若さで大統領に就任したのも型破りだった。1981年までの任期中に、オイルショックなど逆風も吹く中で、内政においては社会の近代化を推進。妊娠中絶の合法化や国民皆保険制、協議離婚制度の導入、18才からの投票権の付与など、近代的な政策を実現することに成功した。外交では、同じ時期に就任したドイツのシュミット首相と結んで、独仏を推進力とする欧州建設を進めた。その後も、信念のある親欧州派としての立場は終生、変わることがなかった。
国民からはエリート臭のある冷たい人物として敬遠されたこともあって、1981年の大統領選では社会党のミッテラン候補に敗れ、再選はならなかった。この時、「フランスに幸運あらんと望む。さようなら」と述べて立ち去るというテレビ演説を放送、これはジスカールデスタン大統領といえばこの映像、というほど人々の記憶に残る場面となった。