2020年11月17日 編集後記

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クリスマスが近づくに連れて、ロックダウンを解除すべきかどうかという当局の煩悶がますます深まっている。経済的な問題もさることながら、フランス人の感情生活では、クリスマスに家族が集って一緒に祝うことの重要性が非常に高いだけに、「外出制限を維持して、家族の集いを邪魔したら、国民が怒り狂う」という懸念が政府閣僚から出ている (17日付けルモンド紙の報道)という。また、すでにカトリック信者は、ミサが禁止されていることに苛立ち、穏健な形ではあるが、各地の大聖堂前で示威行動を展開している。これは他の宗教や宗派には見られない現象で、やはりクリスマス(=キリストのミサ)効果なのだろう。
ちなみに「カトリック」という言葉は、ギリシャ語で「普遍的」「世界的」を意味する「カトリコス」に由来する(という説明がウィキペディアにもある)のだが、1世紀にイスラエルという特定の地域で生きたとされるイエスという一人の人間の有限の存在の中に、どうして普遍なる神の無限が宿ることができるのかは、キリスト教の初期からの絶え間ない懊悩の種だった。
3世紀のギリシャ教父、オリゲネスは、「イエスに関するあらゆる驚異のうちでも、特に人智の限界を超えているのは、見えるものと見えないもの全てを創造した偉大な神の強い力と知恵が、ユダヤの地に出現した一人の男の限られた範囲内に在ったと信じることがどうして可能なのかということだ」という意味のことを主著『諸原理について』で記している(『ケンブリッジ・キリスト教史』第1巻の引用の意訳)。これは確かに、キリスト教を信仰できるかどうか、という究極の踏み絵のような問題提起であり、イエスをめぐる不可思議な逆説を単なるナンセンスな作り話と一蹴せずに、ギリギリのところで踏みとどまり、なんとか体系的に正当化しようと苦心を重ねてきたのが、キリスト教の歴史とも言えるだろう。
3世紀といえば、日本では弥生時代後期に当たり、卑弥呼が邪馬台国を治めていたとされる頃だ。謎の多さでは卑弥呼の邪馬台国もイエス・キリストに負けないが、当時の日本人が有限で特殊な存在の中にどうやって無限で普遍なものを見出すことが可能かについて日夜悩んでいたとは、ちょっと考えにくい。文字だって多分まだ知らず、本も書けなかっただろう。オリゲネスのような先人のことを考えると、信者では全くない筆者でも、キリスト教に対して敬意がちょっと増してくる気もするこの頃である。