2020年10月20日 編集後記

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2015年1月にシャルリーに対するテロ攻撃があった後、フランス全国で表現の自由を擁護する大規模なデモが行われた。筆者自身もあの時に、生まれて初めてデモ行進というものに参加した。あれは全く無意味な示威行動だったことが今になってみると明らかだ。デモの後もフランスではあらゆる分野でイスラム主義が浸透し、これを批判する声は左派・人 権派・良心的知識人からの「イスラムフォビア」だとか「右傾化」だとかの一斉攻撃の前に封じられてきた。多数の善良なイスラム教徒が平和に暮らしている事実が、まさしくイスラム主義の浸透をカモフラージュするための口実として 悪用されていることはまことに嘆かわしい。本来のイスラム教は平和な宗教で過激なイスラム主義とは異なるという幻想(預言者ムハンマドが軍を率いて布教した歴史をろくに知らない信者は多い)が多くの有識者によってすら支持され、批判精神が沈黙を強いられる中で、共和国の学校においても、イスラム主義者の保護者からクレームがあれば、校長など上層部からの指示により(「支持」ではない)教員が謝罪を強いられる時代になってしまった。ジル・ケペルのような専門家によると、こうした事態はすでに30年前から進行しており、発端は女子生徒のイスラムスカーフの着用をめぐる論議に対して当局がその重要性を見抜けずに事なかれ主義的な対応に終始したことにある。
今回の中学校教員に対するテロ攻撃は、教員が共和国において担う役割の象徴性も手伝い、世論に与えた衝撃は大きいが、これをきっかけとする民主派の結束で何かが変わるかどうかは疑わしい。ごく普通に表現の自由を教える授業を行った教員がネット上で吊し上げにあい、「不信心者は殺してよい」とするイスラム教の教え(イスラム教の基本的な考えでは、人間は全て生まれたときから本来的にイスラム教徒であり、イスラム教を信仰しない人間は自動的に、イスラム教を放棄・否定した「背教者」「不信心者」に分類され、殺されても当然とみなされる)に忠実なチェチェン系移民 に殺害されるという悲劇を招いたのは、まさに共和国の理念を盾にした空疎な理想主義によってイスラム主義を盲目的・結果的に擁護してきた「良心的・民主的な」人々にほかならない。現場の教員の多くは孤立感に怯えている。今後も共和国の価値を擁護する虚しい掛け声の影で、現場での怯懦や妥協を通じてイスラム主義の浸透はますます進むに違いない。ウエルベックの名作『服従』が数年前にすでに予告した通りである。