2020年10月13日 編集後記

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来る来ると言われていたCOVID-19の第二波がついに実際に来てしまった。大多数の国では春のような全体的なロックダウンを避けて、ローカルなロックダウンで対応する構えだが、大都市圏では夜間外出禁止令などの厳しい制限措置が導入されつつある。公共の場で社会的距離を維持する必要性はもちろんだが、家族内の集いなど個人的な接触を介した感染が第二波の一因であるため、通常では考えられないような私生活のレベルですら当局の介入による規制が行われる可能性もある。
こうした事態ではとかく「自由の侵害」に抗議する声があがりがちで、マスク着用の義務化に対する反対運動などもこの類だろう。フランスでも例えばコントスポンヴィル氏のような人気哲学者が、当局が高齢者を保護するとの名目でその行動を制限することに強く抗議し、高齢者である自分にはリスクを引き受けるかどうかを選択する自由があり、当局が介入するのは不当だと主張している。
自由、という概念は扱いが難しいが、根本的に考えれば、自分が自由な意思による自由な選択に基づいて行動している という感覚はもちろん単なる幻想で、実際には我々の行動は例外なく外的な要因によって隅々まで決定されており、選択の余地などいうものは一切ないし、自由というものも一切ない。自由というようなものがあるとすれば、それはそのように完全に決定されてしまった自分の運命を積極的に受け入れることぐらいだ。少なくとも、コントスポンヴィル氏よりもかなり偉い哲学者だったスピノザやニーチェなどはそんな風に考えていたようだ。
逆にキリスト教の伝統では自由意志という概念を重視するが、これは罪の概念を維持するために不可欠だからだ。私が罪を犯したのは、私が自分の意志で決めた行動をとったからだ、という論理を成立させるためには、自由意志を認める必要がある。そうでなければ、私が過ちを犯しても、それは全能の神が決めた通りに行動したせいになってしまう。決定論が支配する世界では罪の概念そのものが成立しなくなってしまうから宗教には不都合極まりない。キリスト教的な伝統に基づく倫理を支持するコントスポンヴィル氏が自由を擁護するのは理の当然である。自由は幻想に違いないが、 制限や禁止が増えれば、幻想も勢いづく。自由擁護派の抗議行動が活発化しそうだ。迷惑な話しである。