2020年9月1日 編集後記

投稿日: カテゴリー: 編集後記

黒人への差別に反対し、黒人の権利擁護を支持する運動がしきりと展開されている中で、フランスではアガサ・クリスティの代表作の 一つが題名の変更を強いられた。ここまでやるか、という気もしないではないが、その一方で、右派系の雑誌『VALEURS ACTUELLES』 が黒人女性のダニエル・オボノ下院議員を鎖に繋がれた奴隷として描いたイラスト付きの「夏の小説」を掲載し、物議を醸している。 内容は、オボノ議員が18世紀のアフリカに時間旅行し、当時の奴隷売買の実態を自ら身を持って体験するというもので、その狙いは、 奴隷取引がヨーロッパ人の専売ではなくアフリカ人自身も携わっていたという歴史的事実に注意を喚起することにあるという。この記 事は人種差別だとして、フランス政界の各方面から一斉に批判を浴びている。
オボノ議員は「人種差別・黒人差別」の見地からフランスの歴史的責任を見直すことを要求する政治運動の活動家であり、白人お断り の集会を開催したり、イスラムテロリストを称賛したりと、白人支配に抗議することに熱心な左派系政治家で、以前から右派系メディ アの標的になりがちだったが、今回の記事は「度が過ぎた」と受け止められ、VALEURS ACTUELLESに分が悪い。
「ジェンダー」の場合もそうだが、単一の倫理的観点から歴史や現実を再解釈することには疑問を抱かざるを得ないし、より一般的に、 ルサンチマンに基づく歴史観はろくでもないことが多い。マスコミ露出度の高いオボノ議員が普段から提示している単純な世界観には 到底賛同できないが、悪趣味な風刺を彼女が不愉快に思うことはもちろん理解できる。
右派が繰り返し指摘するように、奴隷制度が西欧の白人による発明だという見方は確かに歴史的にも間違いらしく、黒人奴隷貿易は西 欧諸国の進出よりも早い時期からアフリカ人自身が行っていたことという。もちろん、だからといって、黒人が奴隷化され、過酷な扱 いを受けたことが正当化されるわけでは全くない。それはともかく、右派と左派のどちらの陣営も歴史的事実を部分的に取り出してき て、イデオロギー的に利用しようと、ご都合主義的な「物語」を捏造し、繰り返し語っているわけで、これにはちとうんざりする。い い加減に、イデオロギー(一部の人の耳には心地よい物語のようなものだが)から自由になって、歴史を謙虚に検証したらどうだろう、 と思うのだが、困ったことに、歴史の検証という作業はたいていの場合に新たなイデオロギーによって発動される。マルクス主義なん て、間違いだらけのイデオロギーではあったが、これに触発されて多くの優れた歴史家による優れた歴史研究が達成されたことも歴史 的事実だ。奴隷問題、黒人問題についても、イデオロギーの嵐がもう一荒れした後でないと、冷静な取り組みは無理だろう。やれやれ。